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J-ANIME

8頭身と2頭身のあいだにある宇宙...『軽井沢シンドローム』から現代ANIMEへ。

*TAO LABより
最近のANIMEを観ていて、ふと思い出した漫画がある。

たがみよしひささんの『軽井沢シンドローム』。

1981年に連載が始まった、恋愛、友情、葛藤を描く青春群像劇。
この作品の大きな特徴が、シリアスな8頭身の人物と、ギャグ調の2〜3頭身の人物が、同じ物語のなかに共存していること。

しかも、同じ登場人物が、場面によってまったく違う姿になる。
当時、なんとも斬新に感じた。

もちろん、こうした表現を発明したのが、たがみさんというわけではない。
手塚治虫さんの漫画的な誇張表現や、鴨川つばめさんの『マカロニほうれん荘』などにも、その源流を見つけることができる。

ただ、たがみさんは、その大胆な描き分けを、恋愛や人間関係を描く青春群像劇のなかで印象的に使いこなした漫画家のひとりだったと思う。

そして今。
最近アップした『氷の城壁』『正反対な君と僕』をはじめ、さまざまなMANGA/ANIMEで、同じような表現に出会う。

シリアスな顔が、突然、まん丸の可愛い顔になる。
頭身が縮み、目が点になり、感情が全身から飛び出す。

観ているこちらは、何の違和感もなく笑ってしまう:)

でも、考えてみると不思議だ。
同じ人物なのに、姿がまるで違う。
それなのに、なぜ僕たちは、その人物をより深く理解できるのだろう。

デフォルメの方が、よりリアルなのかもしれない。
たとえば、好きな相手から思いがけないひと言をもらう。
外から観れば、ほんの少し赤面しただけ。
けれども、そのひとの内側では、天地がひっくり返るほどの出来事が起こっているかもしれない。
その瞬間、漫画のなかでは身体が縮み、顔が崩れ、飛び跳ねる。

現実の身体は変わっていない。
でも、そのひとの内宇宙では、本当にそれほどのことが起こっている。

つまり、8頭身が外から観える姿だとすれば、2頭身は内側から感じている姿。
そんなふうにも読み解ける。

むしろ、現実にはあり得ない姿の方が、感情の真実を伝えることもある。
写実的に描かれたものだけが、リアルなのではない。

◆ ひとりひとりが、ひとつの宇宙。
ここで、最近とみにシェアーしたいリアル...僕たちは、同じ世界に生きていると思っている。
けれども、同じ出来事に出会っても、感じることはひとりひとり違う。
あるひとには何でもないひと言が、別のひとには人生を変えるほどの出来事になる。

外から観える世界と、内側で体験している世界は、必ずしも一致しない。
そして、僕たちにとって直接的なリアルとは、いつも自分自身が体験している世界なのだろう。

そう考えると、MANGA/ANIMEのデフォルメは、実に面白い表現だ。
外側の姿を大胆に変えることで、目には見えない内宇宙を描いてしまう。

リアルを崩すことで、リアルを伝える。
これこそ、漫画という表現が持つ、ひとつの魔法なのかもしれない。

8頭身と2頭身の「あいだ」。
そして...
8頭身から2頭身へ。
2頭身から8頭身へ。
その切り替わりの瞬間に、僕たちの想像力が働いている。

作者がすべてを説明しなくても、読者や観客は、その変化を自然に受け取り、登場人物の感情を感じ取ってしまう。
僕が探求している日本語脳の「間」とも、どこか響き合う。
描くひとの内宇宙と、観るひとの内宇宙。

その「あいだ」に、もうひとつの世界が生まれる。
もちろん、こうした表現は日本だけのものではない。

けれども、日本のMANGA/ANIMEが長い時間をかけて磨いてきた、豊かな視覚言語のひとつであることは間違いないだろう。

1981年の『軽井沢シンドローム』から、2026年の現代ANIMEへ。
45年を隔てた表現が、僕のなかでつながった。

8頭身は、外宇宙。
2頭身は、内宇宙。

そして、その「あいだ」に、僕たちがソウゾウする世界がある〜:)
福は「内」、で、外にも「福」。

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