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本日の一本

幸いなるもの...絶望と希望、そのあいだにあるもの

9/3、二度目の『魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』『時には懺悔を』を続けて観た。

まったく違う二つの物語なのに、不思議なほど同じ言波が私に響いていた。

絶望と希望。
悔い改めと懺悔。
そして、「大丈夫!」

絶望と希望!!!
『まどか☆マギカ』の世界では、そもそも希望と絶望は切り離せません。

願うから、失う。
愛するから、苦しむ。
希望を強く抱いた者ほど、その反転として深い絶望を知る。

そして今回の〈廻天〉では、前作『叛逆の物語』でまどかへの想いゆえに「悪魔」となり、世界そのものを書き換えたほむらの、その先が描かれる。

一方、『時には懺悔を』には魔法も魔女もいない。
いるのは、過去に傷つき、誰かを傷つけ、それぞれに「罪」を抱えた人間たち。

家族から目を背けた者。
子どもを愛せなかった者。
誰かを利用した者。
孤独のなかを彷徨ってきた者。

そこへ、「生きているのが奇跡」とされる新(おいおい、シンだよ、ここでも)という小さな命が現れ、大人たちを少しずつ動かしていく...それぞれの方が、外ではなく、内に、沈む〜そして、外に向け、止むに止まれぬ想いを行動へと〜

二つの作品を重ねながら、、、思った。
絶望と希望は、本当に反対側にあるものなのだろうか。
絶望と希望は、敵同士ではない!!!

希望を抱くから、失ったとき絶望する。
誰かを愛するから、傷つき、悔い、時には自らの過ちと向き合う。

けれど、そこで物語が終わるわけではない。
絶望し、悔い、懺悔し、それでも誰かを、何かを想えたら、、、もう一度歩き始められる...
そのマワリテメグル道程そのものが、希望なのかもしれない。

だから「大丈夫!」とは、「何も問題ない」という言葉ではない。

絶望しても、大丈夫。
間違えても、大丈夫。
悲しんでも、大丈夫。
傷つけてしまっても、大丈夫

そこから、自らを観て、向きを変えれればいい。

そう考えていたら、イエスの言葉が重なってきた。
「幸いなるかな、悲しむ人々。」

悲しまない人が幸いなのではない。
悲しみの中にも、まだ見えていない「その先」がある。

十字架の向こうに復活があるように。
冬の向こうに春があるように。
「死国」が「始国」へとメクルように。

絶望は、希望の反対ではない。
絶望も希望も、ヨイコトもワルイコトも、光も闇も。
どちらかを切り捨てるのではなく、その両方を抱えながら歩くことで、人は少しずつシンカしていくのではないだろうか。

以前、こんな言波を書いた。
「愛は、巡ることで深くなる。」

そこに、もうひとつ加えてみたい。
絶望を知らないことが、幸いなのではない。
絶望と希望のあいだを歩き、自らの過ちを観て、悔い、懺悔し、それでも愛することをやめず、歩き続けられたら...

二つの物語には、もうひとつ、不思議な相似形がある。

まどかとほむら。
新(しんすけ+諸角優空)と哲夫(宮藤官九郎)。

希望そのもののような存在と、その命を守ろうとする者。
愛するがゆえに苦しみ、ときに迷い、絶望し、それでもなお、愛することをやめない。

愛とは、ただ美しいものではない。
守りたいという願いが強いほど、執着にも、苦しみにもなり得る。

まどか=希望そのものになっていく少女
新=生きていることそのものが希望となる少年

そして、

ほむら=その希望を守ろうとして絶望まで抱く者
哲夫=その小さな命を守るため、自らを注ぎ込む者

だからこそ、その絶望と希望のあいだを歩き、自らの過ちを観て、悔い、懺悔し、それでも愛することをやめず、歩き続けられたら......絶望が希望へと廻天していくのかな。

「幸いなるかな、その人は。」

義に飢え渇き、平和を願い、それを自らの生き方としていく。
その小さな光を、しっかりと仰ぎ観れたら、きっと歩き続けられる。

そして、
大丈夫!!!
絶望も、懺悔も、終わりではない。

終わりは、また始まりでもある。
...マワリテメグル、宇宙銀河生命の物語は続いているのだから。

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