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誰かを悪者にしない、私たち日本人の内なる「業」と平和への理性のサイエンス〜映画『開戦前夜』と5冊の書物から学ぶ「空気」と「失敗」の本質

*TAO LABより
8月9日。
81年前、長崎に原子爆弾が投下されたその日に、あえて映画『開戦前夜』を観に行きました。

上映が終わったあと、場内を覆っていた、圧倒的な重苦しさ。
誰もすぐには言葉を発することができないような、あの「空気」に、私自身も呑み込まれていました。

◆ 「空気」の正体
この作品が描くのは、開戦前の1941年、総力戦研究所に集められた若きエリートたちが、膨大なデータをもとに日米戦争をシミュレーションし、冷徹な結論として導き出した「日本必敗」という予測です。

にもかかわらず、その現実的な予測は、国家全体を包み込んでいった「得体の知れない空気」の中へと呑み込まれていく...

なぜなのか?
以前、読んだ書籍とともにあらたに手に入れたもの含め、ザックリと重ねながらここにメモしますね。

山本七平氏『「空気」の研究』で描いたように、日本社会における「空気」は、ときに論理やデータを超えて、人々の判断そのものを拘束する力を持ちます。

しかし、この「空気」をつくった犯人を、東條英機をはじめとする一部の権力者だけに求めれば、それで問題は解決するのでしょうか。

私は、そうは思いません。

金澤正由樹氏『「空気の研究」の研究』で、ゲーム理論や進化心理学という別の角度から、この集団意思決定の不可思議さを読み解こうとしています。

外敵や危機を意識したとき、人間は内側の結束を強めます。

「自分たちは正しい」
「敵は間違っている」

その単純な境界が強くなるほど、集団の中で異論を口にすることは難しくなる。

そこへ、当時の新聞をはじめとするメディア、大衆の熱狂、軍や官僚組織、それぞれの事情にお金も絡み、さらに過去の成功体験、そして「今さら引き返せない」という心理が重なっていく...

つまりこの場合の「空気」とは、どこかにいる一人の悪人が吐き出す「邪気」だけではありません。

私たち一人ひとりの欲望、恐れ、保身、忖度、プライド、沈黙が、互いに反応しながら生み出してしまう集合的な邪気=現象なのではないでしょうか?

所詮、営利を目的とするメディアは人々が求める物語を敏感に察知し、拡散。無明な人々はそれを娯楽としてさらに消費する。互いが互いを増幅する...

その循環の中で「空気」は、いつしか誰にも制御できないほど巨大になっていったのではないか?
あの567の時の「マスク警察」や「ワクチン差別」...思い出してください。

鈴木博毅氏『「超」入門 空気の研究』が整理する「27の見えない圧力」は、この問題が戦前だけの特殊な現象ではないことを示唆しています。

「波風を立てたくない」
「みんながそう言っている」
「自分一人が反対しても仕方がない」
「ここで異論を唱えれば、自分の居場所がなくなる」

そんな、ごく日常的な感情から「空気」は育っていきます。

現代のSNSで起きる炎上や集団バッシングも、構造は同じようなエネルギーです。
「外側にある悪」を叩いているつもりの私たち自身が、知らず知らずのうちに「狂気の空気」へ薪をくべている。
その悪循環を、私たちは観なければなりません。

◆ 「失敗」の構造
では、なぜ優秀で、真面目で、それぞれの持ち場では懸命だった人々が集まりながら、国家全体として破滅的な方向へ進んでしまったのでしょう。

戸部良一氏らによる『失敗の本質』が突きつけたのは、日本軍の失敗を「能力の低い人間がいたから」という単純な物語では説明できない、という問題です。

環境の変化に適応できない。
過去の成功体験から離れられない。
目標そのものより組織内部の論理が優先される。
失敗の兆候が出ても、計画を修正できない。

そして、意思決定には多くの人が関与しているにもかかわらず、最終的な責任の所在はその「空気」によって曖昧になる。

鈴木博毅氏の『「超」入門 失敗の本質』が整理した「23の組織的ジレンマ」は、それらを過去の日本軍だけの問題ではなく、現代組織にも通じる病理として読み直しています。

ここで恐ろしいのは、
一人ひとりが、「空気」に呑まれた上で、その場ではそれなりに合理的な判断をしていたとしても、それが積み重なった結果、全体としては破局へ向かうことがある
ということです。

「自分が反対しても変わらない」
「ここで声を上げれば立場を失う」
「ここまで犠牲を払ったのだから、もう後戻りできない」

そうして一人ひとりが自分の場所を守るうちに、誰も望んでいなかったはずの巨大な流れが出来上がっていく。

だから私は、戦争を
「悪い指導者に善良な国民が騙された」
という一行で終わらせたくありません。

もちろん、権限を持った者には、その権限に応じた重い責任があります。

しかし同時に、
「空気に従っただけだから、自分には責任がない」
という場所へ逃げ込んでも、同じ過ちを防ぐことはできないと思うのです。

◆ 東條英機という人間
ここからは、歴史的評価とは別に、私自身の経験と受け止め方を書きます。

私は東條英機という人物を、過度に美化するつもりはありません。もちろん、彼一人をすべての悪の象徴として断罪するつもりもありません。

戦争指導者として負うべき責任は、当然あります。

しかし同時に、彼を単純な「独裁者」という一語だけで封印してしまえば、あの時代に何が起きたのかという、もっと不気味で、もっと私たち自身に関係する問題を見失ってしまうように思います。

私には32年前、東條英機という存在と「時空を超えて交歓した」としか表現できない、極めて個人的で強烈な体験があります。

それを史実の証拠として誰かに押しつけるつもりは毛頭ありません。

しかし、その体験を経た私の内側に残った東條像は、「日本のヒトラー」「私利私欲だけで権力を求めた人物」とは、どうしても重なりません。

むしろ、国家、天皇、軍、官僚、世論、そして時代そのものがつくり上げた巨大な濁流の中で、自らもまたその「空気」を形成しながら、最後にはその責任を引き受けた、一人の極端なまでに生真面目な人間としての側面も見えてきます。

東京裁判における東條の言動にも、その一徹さは表れています。
彼は天皇の戦争責任を否定し、自らが総理大臣・陸軍大臣として負う責任を強く主張しました。

私はそこに、彼なりの忠義と覚悟を見ると同時に、ある大きな問いも感じます。

一人の人間が「私が責任を負う」と言えば、それで本当に歴史の責任は終わるのか。

東條一人を「悪」として切り離した瞬間、私たちは安心できます。

「あの人が悪かった」
「あの軍部が狂っていた」
「あの時代の日本人は愚かだった」

そう言ってしまえば、自分はその物語の外側に立つことができる。

しかし、それこそが最大の罠なのではないでしょうか。
東條を絞首台へ送って終わりにしても、

「なぜ異論が消えたのか」
「なぜ合理的な予測が無視されたのか」
「なぜ誰も止められなかったのか」
「なぜ責任が拡散したのか」
「なぜ社会全体が一つの方向へ熱狂したのか」

という問いは残ります。

そして、その問いへの答えを出さないままなら、「空気」を生み出すシステムは、姿を変えて何度でも現れます。

◆ 空気に呑まれないために
私たちが平和な未来を築くために「今」学ぶべきことは、過去の誰かを悪者として断罪し、安心することではないと私は思います。

もちろん、歴史的事実を曖昧にすることでも、加害の責任を消すことでもありません。

必要なのは、
事実を事実として見つめながら、それでもなお「自分なら空気に呑まれなかった」と簡単には思わないこと。
です。

自分とは違う意見を持つ人間を、即座に敵と呼ばない。
集団が熱狂しているときほど、一度立ち止まる。
「みんなが言っている」ではなく、自分自身で確かめる。
数字や事実が、自分の信じたい物語と衝突したときこそ、事実の側を見る。

そして何より、
「悪はいつも外側にいる」という誘惑に負けないこと。
私たち一人ひとりの内側にも、「空気」を生み、育て、誰かを排除しようとする強固な種があります。

その種を観ること。
自分の中の熱狂に、自分自身で水を差すことのできる理性を持つこと。

私は、それこそが平和を守るために必要な、本当の意味での「強さ」ではないかと思っています。

映画『開戦前夜』を観終えたあと、場内を満たしていた、あの重苦しい「空気」。
その正体を過去だけに閉じ込めるのではなく、

今を生きる自分自身への問いとして持ち帰る。

そうすることができたなら、あの失敗の記憶を、未来の希望へとシンカさせることができるのではないでしょうか?

さて、ここで、あらためて〜

「自分が1941年のその場にいたら、水を差せただろうか?」
「2026年の今、自分が正義だと思って参加している"空気"はないだろうか?」

東条英機氏の立場がもし私だったら、また貴方だったら、どのような行動とまた責任を果たせるでしょうか?...

第三次世界大戦は一人ひとりの中で平和を築く「最後の審判」「内宇宙でのスターウォーズ」です。

その闘いを最後まで「空気」に呑み込まれず、与えられた責任から逃げず、光を仰ぎ、完遂出来るでしょうか?...

「今此処」顔晴れ、わたし...たち

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