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青山堂運歩 by 川島陽一

軸と平衡感覚

ユニヴァーサル・インテリジェンスからイネイト・インテリジェンスへ
ーカイロプラクティック創始者の考えに伏在するものー

アリストテレスは、彼の哲学の核心である『思惟の思惟noesis noeseos(ノエシス・ノエセオース)』によって広大な存在論の宇宙のなかに「自己」という存在の深淵を開きました。『思惟の思惟』とは、ユニヴァーサル・インテリジェンス=究極者、が絶対超越的「無」の世界から一段下りて、イネイト・インテリジェンス=「自己の開顕」に至る場面なのであります。

かつて、カイロプラクティックの創始者ダニエル・デヴィッド・パーマーはこう述べました。
「イネイト・インテリジェンス(生得生来の生命力)は、すべての生命活動とそこに起因する生命現象を司りかつ平衡を保つのである。カイロプラクティックを施行するものは、イネイト・インテリジェンスの神経系を疎外・阻害(ディスイーズ)する頸椎の第一番および第二番の亜脱臼(サブラクセーション)を調整・調律することのユニヴァーサル・インテリジェンス(神)からのデューティー(義務)を負っているのである」、と。

カイロ=手による、プラクティーコ=技とは、彼の友人のギリシア人医師による命名でありました。わたしたちはここにカイロプラクティックのギリシア性に目を向けることになります。

ギリシア思想史の長い旅路は、プラトンに始まり、アリストテレス、そしてはるばるプロティノスに辿りつくことになります。その間七百年。わたしたちはユニヴァーサル・インテリジェンス=神=絶対者、に対するプラトンの哲学的把握が「無」としてではなく「有」としてとらえようとし、かえって絶対者の幽深な本体をのがした、と考えるものであります。プロティノスこそはまさしく、自己を超脱した観照体験によりアリストテレスの『思惟の思惟』をも遥かに超えてプラトンの「善のイデア」に帰還しようとするものでありました。

ところで、プラトンの「イデア」とは、厳密なる意味での「知」にのみ把握されるものであり、「知」は常に「真」でなければならない。さらには、「イデア」はギリシアのいわゆる問答法(ディアレクティケー)によって取り扱われるもの、ディアレクティケーによってのみ把握される真実在なのであります。そして、「何であるか」と問われ「まさにそれである」と答えられるところのもの、窮極における定義の対応、いわゆる「本質」(クイディタス)に他ならないものなのであります。

つまるところ、「イデア」には、永遠性と不変性が考えられ、不生不滅が考えられなければならないのです。「不生不滅」、そこにこそ、プロティノスをして「新プラトン主義=ネオプラトニズム」の体現者とする所以があるのだとおもわれます。

プロティノスにおいては宇宙の存在論的構成は観照体験の生々しい体験から来るのですが、我がダニエル・デヴィッド・パーマーも、いわゆるユダヤ神秘主義=カッバーラーの観照体験により、「軸椎」の存在の確証を得るに至る、曰く「生得生来の知性としてのイネイト・インテリジェンスは、カイロプラクティックを施行するための直接的な学習には何らの必要性も生じさせない、つまり、イネイト・インテリジェンス=生得生来の知性に全面的に任せればよいのだ」、と。

さて、プロティノスはこう言います。
「全宇宙において、全てのものはそれぞれの仕方で生きている。ところが我々は、あるものが我々の感覚に訴えるような運動を宇宙から受けていない場合、そのものは生きていないと考える。つまりそれは、その個物の生命が我々には捉えられないということである。のみならず、生きているということが我々の感覚でははっきり分かる物でも、実は我々には感覚できないような仕方で生きている多数のものから合成されているのであり、それらすべてのものが、そういう生物の生にたいして驚嘆すべき作用を及ぼしているのである。(例えば)人間は、彼を内から動かす内在的諸能力が全然魂を欠くものであったとしたならば、これほど自由自在に動くことはできないであろう。それどころか、宇宙それ自体も、もしその中に存在する各々のものがそれぞれ固有の生によって生きているのでなかったならば、生命のない死物と化してしまうほかはないであろう。」(エンネアデスⅣ)

魂が観照するということは、そのまま全宇宙が観照することを意味します。

イデアは共通なる「一者(いっしゃ)」であり、プラトンによる一者の発見こそ、多のつみかさねや合計と同じまでに超越的な普遍者なのであります。そこで、ユニヴァーサル・インテリジェンスにイネイト・インテリジェンスが包まれているということを、プロティノスが把捉していたことが理解されるのです。

プラトンは「国家」において哲人王の思想を論じ、アリストテレスは、宇宙的規模の形而上学を打ちたてました。プロティノスこそは、アリストテレスを越えてプラトンに帰った人でありました。

曰く、
 「ここに述べる私の説はなんら新しいものではなく、また今日の新思想でもなく、すでに遥か昔に唱道されながら未だ充分に展開されなかったものに過ぎない」、と。(エンネアデスⅤ)
彼こそは、ギリシア哲学七百年の伝統の重みを、自らの体で、自覚していたのだと言えましょう。

古代すぐれた人とは、聖徳を持っている人というある意味哲学的なカテゴリーではなくして、「平衡感覚」=ひとの弱さを知り、他人(ひと)に関して完全を求めるのではなしに、寛容さを熟知した人ということっだった、のではないでしょうか。

ここでわたしたちは視点を変えて、カイロプラクティックのユダヤ性を少し考えてみましょう。
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『新世紀エヴァンゲリオン』オープニング図形より

現代のユダヤ神秘主義カッバーラー主義者=カバリストの一人、レオ・シャヤは、カッバーラーの構造モデル「セフィーロートの木」を唱えております。「セフィーロートの木」は限りなくインド系密教の「チャクラ」に近いものと考えていただくとわかりやすいものです。「セフィーロートの木」は宇宙的に巨大なる人体である、と想像するのです。神的な存在エネルギーの凝集点を人体に例えるのです。

セフィロトの樹と人体.jpeg

「聖書の神を越えない限り、この世界は救えない」(精神学協会 積哲夫)とするならば、それは理想像としても、わたしたちのからだの「本来の姿」であればそれは、「首が座る」そして「きれいな彎曲=前彎」の把持=永遠不断の持続性(カッバーラーのセフィーロート第七番、ネーツァハ)を意味するもの、といえるのではないか。

そして、それはまさに「軸」が導き出すところの、「平衡感覚」ではないでしょうか。
 
*TAO LABより
ユニバーサルインテリジェンス(宇宙の叡智)⇔イネイトインテリジェンス(内なる叡智)

軸=垂直
青山堂運歩Vol1 軸と生命力

那智の滝...と、熊野三山
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