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『四国88ヵ所歩き遍路の記 vol.2』〜まさしく...「死国旅立ち」のはじまり
*TAO LABより
1995年──今からちょうど30年前の3月3日、晴海から船に乗り、四国・徳島へ〜
当時、わたしは家族との縁は断たれ、また、自らも生まれ変わりたく、再婚をきっかけに運命を変えるために婿養子(白澤から吉原へと名字が変わる)となり〜それは今振り返れば、おバカだなぁ〜と笑っちゃいますが、自分らしく、強くなるために、独りで立つためには必要な出来事と受け入れています。
前回、記録したように突然の四国巡礼に更なる突然の出来事が重なりました...それは旅立つ2〜3日前にまずは...身内とも云える一人暮らしの方が炬燵の中で息を引き取っているという〜彼は私の母の弟=伯父さんが経営している会社の、伯父さんの右腕とも云える存在の方でした。会社に現れず、心配した伯父さんが自宅を訪問、その出来事に遭遇したのです。
さすがに母より連絡があり、お通夜に行きました。四国巡礼のことは皆知らず、頭を剃った自分が現れ、そこに集った方々にとてもびっくりされましたが、結果、四国に歩き遍路に行くこと、伝わりました。この行動は遊びではないこと、また、タイミング的に彼の突然の死のあとなので、この巡礼に対する母や伯父さんの受け止めは好意的なこととなりました。
さて、彼のお葬式には日程的に出れず、私は徳島=アワの国=発心の道場へと旅立ちました。3月4日に徳島到着。そこから一番札所である霊山寺へと向かい、ご挨拶。この日は横にある大麻比古神社にも参拝、彼の死への旅立ちと共に私自身の旅の安全を祈願したのでした。
この日は、あと四国遍路の準備で納経帳や納経軸を購入、四国お遍路の道具として知人から彼が廻った時の管笠と金剛杖はいただいておりました。それ以外のスタイルはある意味「型破り:)」アウトドアーで固め、リックを背負っています。
この旅は全て自炊、それも玄米菜食一号食に近いシンプルなゴハンと定めました。また携帯電話+ネットのない時代ですが、公衆電話で前年、初夏から同棲し始めていた当時の彼女(その後、妻となり、さらに相棒となりました)とすり合わせ。三日に一度、玄米おにぎりが三日分指定した場所に送られてきます。初日はそれをいただきますが、二日目以降はおじやとしていただきました。そのための簡単なキッチンツールと味噌や醤油等調味料も組み込んでいました。
そして〜5日早朝、いよいよ本格的に巡礼が始まります。朝、4時頃だったでしょうか?外はまだ夜の帳の中、歩き出しました。
その日は...あいにくの雨...どひゃ〜なんと、初日から雨。なんとも心細く、雨の中、レインウェアを着ながらずぶ濡れの中、歩いているうちに明るくなってきました。
なんだか胸騒ぎがして...早朝だったけど、母に電話をしなくてはならない気持ちが溢れ...公衆電話を見つけ、母に電話しました。
早朝にも拘わらず、母は直ぐに電話に出て...このタイミングで私から電話があること、とても、驚いていました。
そして〜開口一番
『ヒデキ、伯父さんが昨日亡くなっていたのよ...』
母の声はとてもとても深い悲しみに包まれていました。
自死でした。右腕だった彼を追っかけるように〜なにもかも捨て...想うに衝動的に命を自ら絶ったのではないかと。
「ヒデキ、今夜はお通夜、そしてお葬式も行われるけど...あんた、戻ってくる?どうするの?」
初日、早朝、雨、さらに追い打ちをかけるような重い出来事。
私は一息息を吸い、そして大きく吐き出し、一気に、考えるまでもなく反射的にまくし立てました。
『ごめん。戻れない。このタイミングだから...なおさら。オレは独り、この現実を受け入れ、また、彼らも供養しながら...歩くよ。歩かせてくれる?』
と、相談ではなく決心を伝えました。
母はその決心を受け止めてくれました。
『ヒデキ、そうだねぇ〜わかりました。なら、二人の分まで歩いてあげて。』
こうして私は「四国」の旅の一歩目を踏み出しました。
旅立ちの前+そして当日、身内が続けて...「死国」に旅立つという...雨に打たれ、濡れた路面、どんより外のみならず、内も...灰色の世界に独り、放り出され...涙は出なかったけど、なんという...
まさしく「死国へ」としか云えない道中が始まったのです...そして、さらなる大変が...すぐそこまで。


