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世界のマダム・バタフライ...日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手「三浦環」ご存じですか?

*TAO LABより
仲小路彰さんを掘っていたら、この方とも繋がりました、三浦環さん。
日本の思想家・哲学者・歴史家であった仲小路さんは実は1000曲以上もの音楽をソウゾウしていました。そのほとんどは世に出ておらず、彼がどんな音楽を宇宙的球体感覚ともいえる霊感からインスピレーションを受け取り、譜面に落としていたのか?とても興味深いです。
彼の存在、音楽には細野晴臣さんも影響を受けたとどこかで読んだ記憶があります。

さて、三浦さんとはこんな方です。

三浦 環(みうら たまき)
1884年(明治17年)2月22日 - 1946年(昭和21年)5月26日)

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東京府東京市京橋区(現:東京都中央区京橋)出身の日本の女性歌手。

20世紀前半、世界中の人々をその歌声で魅了した日本最初の国際的プリマドンナ、三浦環。
彼女の2,000回にも及ぶ『蝶々夫人』の上演記録は未だ破られていない。また数多いバタフライ・シンガーで、作曲家プッチーニ自身が「『マダム・バタフライ』はマダム・ミウラのために作られたようなもの」と絶賛した歌手も彼女をおいていない。
環は1884年2月22日、東京に生まれる。幼少より箏、長唄、日本舞踊などを習い、これが後の「蝶々夫人」主演に役立つ素地となった。16歳で東京藝術大学の前身、東京音楽学校へ入学。在学中より環の才媛ぶりは光り、1903年には日本初のオペラ公演『オルフォイス』の主役を弱冠19歳でつとめた。さらにこの後、帝国劇場の専属プリマドンナとしても活躍した。
1913年、三浦政太郎と結婚し、翌年、夫は医学の勉強、環は声楽家に師事するためベルリンに渡ったが、第1次世界大戦が開戦したため、2人は急遽、ロンドンに移動した。1915年、環はロンドンオペラハウスで『蝶々夫人』の主演を務め、大好評を博した。同年環は、ニューヨークへ渡り、その後の16年間、アメリカを中心に世界各国で『蝶々夫人』を演じ、絶大な人気と評価を得た。そして1935年、イタリアのパレルモでついに『蝶々夫人』出演2,000回の偉業を達成。これを機に国際舞台から引退、帰国の途についた...

その後、大東亜戦争〜太平洋戦争が始まり、1943年2月山中湖に疎開したそうです。仲小路さんも1944年6月同地に疎開。
三浦さんが入院のため上京したのが20年の暮れということですから、1年半ほど二人は近くに住み親交を深めたようです。
三浦環が山中湖岸で富士山を仰ぎながら発声練習をしたという話は有名です。おそらくは仲小路さんもそれを聴いたことでしょう。当然、「世界の蝶々夫人」の「ある晴れた日に」も聴いたことでしょう。
そして、仲小路さんは三浦さんのために歌曲を作事作曲しました。それがどのような作品なのか、今となっては残念ながら誰も知り得ません。

とはいえ、この曲だけは録音され、残っています。
聴いてみたいと探しましたが未聴。
ネットサーフィンしておりましたら、歌詞は見つけました。
ここに転載いたします。

仲小路彰 作詞作曲 三浦環 唄『永遠なる女性』
天照らす 御光りの
きよらけく あきらけく
さし出づる あしたのごと
きよらなる 乙女の願ひ
永遠に 純かれ
乙女の願ひ 永遠に純かれ

天照らす 御光りの
くもりなく くまもなく
さしわたる 真昼のごと
まとこなる女性の想ひ
永遠に 美はし
女性の想ひ 永遠に美はし

天照らす 御光りの
かぎりなく そこひなく
さし恵む 御空のごと
たらちねの 母の心
永遠に 安かれ
母の心 永遠に安かれ


アマテラス...マリア光線ともいえる美しい〜御光りが〜〜〜:)
天地人に、、、ありがとうございます!

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奇跡のプリマ・ドンナ オペラ歌手・三浦環の「声」を求めて:大石 みちこ

「マダム・ミウラがうたっているのではない。私が心の中で描く、幻のマダム・バタフライが舞台に現れたと思いました。あなたは世界にたった一人しかいない、最も理想的な蝶々さんです」- プッチーニ -

オペラ《蝶々夫人》の海外2000回公演。
渋沢栄一、滝廉太郎、プッチーニ......綺羅星のごとき財界人・芸術家が周囲を彩ったその数奇な運命。
東京音楽学校、帝国劇場、ロイヤル・アルバート・ホール、ホワイトハウス......明治~昭和期に「声」一つでプリマ・ドンナの階段を駆け上がった三浦環。
本人直筆の手紙を含む膨大な資料から、その人間像とドラマを流麗な筆致でつづった、伝記ノンフィクション。

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