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青山堂運歩 by 川島陽一

身土不二 ―獄中閑を読むー

大自然の神、摂理のもたらす法と、人の世の中で普通に食べ物を食べ、衣服や住まいを頂くことが、実は普通ではないことがあります。宇宙の支配する摂理や物理的法則のもとには、囚われの身としてあるのがわたしたち人間という存在なのでしょう。

「二法身下顕身土不二、由依正不二故便現身即表國土離身無土者荊渓云此是法身身土不二之明文也」
北宋僧智円『維摩経略蔬重裕記』

以下わたくしの大まかなる意訳ですが

身土(精神と肉体)は、決して二分することができないものだと、おのずから、分かってくるもの。天にあります「精神や魂(こん)」と地下にある「魄(ぱく)、つまり蟲をなすものはまさしくこの二法を脩の深く知ることによって、地上表面の大地に、「人間」として立つことを知るのである。

先の大戦(大東亜戦争)時に満州の地で発病したわたしの父は、三十年前に亡くなりました。
病の名は、精神分裂病(当時)。戦地より本土に送還、東大病院へと収監されます。東京裁判(連合軍による一方的なものであり、私はこれを裁判と認めてはいない)の法廷で、日本国首相であった東条英機氏の頭を、突如後ろから叩き、都立松沢病院へと強制収容された大川周明氏と父は一時、その同じ病院にいたこともあったのです。

本題から全く離れた話をするようですが、「囚われの身」の境遇を想ってみました。

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『獄中閑』:川口和秀 著
各種ネットブックショップこちらより購入できます。

川口和秀さんは、キャッツアイ事件と言われる事件の首謀者として、抗争相手の組織の者を輩下が独断で狙撃、流れ弾でホステスが死亡した。この調書を改竄(かいざん)、女学生の死亡とされ、罪のでっち上げ、スケープゴートとして、二十三年に及ぶ服役をされた。罪なき罪での獄中の話に、崇高な魂を観るのである。

芭蕉の句  
 さまざまなことを思い出す桜かな

川口さんは宮城刑務所の観桜会で、桜を見あげます。
そして、ユーモアの巧みさに思わず微笑まずにはいられません、「獄道の皆さんへ。砂漠でスイカを冷やす方法を御存知でしょうか ?割って日向にっ放置すればいいのです。これは気化冷却という方法。」「雪隠(せっちん)の火事(焼けクソ)」「駅前の自転車(捨てたものじゃない)」などなど。
「あの折の台風は、大人の手で二抱えもあるほどの幹回りのポプラを倒しました。私はその光景を二階独居から目前で見たのです。自由な社会にあって目前で観る、遭遇することも稀なのに、身動きならぬ環境であのシーンをつぶさに観察できるとは、何が幸いするやら分かりません。」

そして、川口さんの好きな言葉、「しあわせは、いつも自分の心がきめるもの」(書詞家 相田みつを)、そして「己の器量の分だけ心も揺れる」
ことばの端端にわたしの魂、心はかぎりなく揺さぶられるのでした。行動の自由がうばわれていても、心の自由は。魂の叫びは奪うことができぬ。

川口さんはいいます「人間。憎むことだけでは生きていけません。・・・しかし憎むことは苦しみ続けることであり、心が腐るばかりです」、と。

「道窮未禱神(みちきわまれどいまだ神に祈らず)」、幸徳秋水の漢詩を引用し、川口さんは秋水に同意同感する。曰く「苦境は受動的では打開できません」、と。
西田幾多郎の「絶対矛盾の自己同一」を「生と死が矛盾で、一体に同居している」、と思い至るところは、思わず感嘆してしまいました。

 「止持作犯」(しじさはん)「してはならないことをするのも罪だが、しなければならないことをしないのはもっと罪だ。」ということ。
川口さんはこの座右の銘が「神の詩バガヴァッド・ギーター」の内容とまるで同じ、とおっしゃいます。まさしく同意する次第です。別の場ではありますけれど、わたしも病んだ世の中への戦いへと、戦いを貫く決意を強く持ちます。 

「聖人」ということばの起源を紐解きますと、遠き古代にさかのぼります。『論語』での孔子の使い方を見ますと、まさしく、かれの時代にひろくもちいられていたことは間違いありません。

師は言った。
「聖人」とは、私から見れば、見(まみ)えることができない。君子の徳をもつ君(くん)に遣(つか)えればそれだけで十分に満足だ、と。
子曰、聖人君不得而見之矣、得見君子者、斯可矣 
(『論語』述而篇第七、第二五)

孔子は、「聖人」という言葉で、人間を超えた存在者を意味させたのだ、と思う。さらにいえば、老子こそがこの言葉に、明確に、劇的な変化をもたらすのである。老子形而上学的立場―「聖人」こそが、普通の人々の心を離れ、「絶対的な「自由」の領域を超えているのであり、まさに、「規格外(アブノーマル)」で、不可思議で奇怪な生き物とみえるのだ。
  
教えていただけませんか。規格外の者〔「畸人(きじん)」〕、そうした者はどの類の人間でしょうか。
答え。
「規格外の」者は、他の人とまるで違うが、天とぴたり適合している。
だから、〈天〉から見て、取るに足らぬ者は、普通の人間から見れば、君子の徳を備えた者であり、他方、〈天〉から見て、君子の徳を備えた者は、普通の人間から見れば、取るに足らぬものなんだよ。

敢問畸人者、畸於人而仁侔於天。
故曰、天之小人、人之君子。
人之君子、天之小人也。
(『荘子』大宗師篇第六、二七三頁)

囚われの身でありながら、実はその人こそ、囚われの身ではなかったのだ。
規格外の者こそが完全に〈天〉と適合している事実を、そこにわたしたちは見る。
魂と心はかぎりなく揺さぶられるのでありました。

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