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青山堂運歩 by 川島陽一

コトバと呪術

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『頸部前彎療法』という整体の方法論の中に、コトバによる癒し、という考え方があります。

古来、日本人は「言霊(ことだま)」「言魂(ことだま)」といい、『万葉集』には言葉によって人を癒す和歌が多くみられます。
 
 あぶりほす人もあれやも家人(いえびと)の春雨すらをま使ひにする (万一・六九八)

遠く旅路を辿っている旅人の行く空に春雨が降る、これは家人が自分を想う憂いの涙であろう。誰か乾かして、家の人の歎きをとどめてほしい、といった意味であろうと思いますけれど、同時にその古代の思想は、すべてのものが霊性を持ち互いに同じ次元において響き合い感じ合う、自他の区別のない世界を現していると言えるのではないだろうか、と思います。

西洋では人類学者たちが、多くの未開の人の信仰の要点が、呪術師たちの「声」にあるといいます。言葉は実際に発音されない限り、活動しているとは言えないそうですが、「声」すなわち「気息」にこそ力があると、人類学者の多くは考えているようです。コトバの効力は気息に運ばれることでこそ、有効になるのだ、と。 実際に、実に多くの民族が「気息」を使い、超常的な力を生み出していることをわれわれは発見するに至ります。

ギリシア語のプシュケー(息・魂・生命)。プネウマ(息・風・生命・精神)。サンスクリットのアートマン(息・霊魂・生命)、プラーナ(風・息・空気)。ヘブライ語のルーアハ(息・風・精神)、ネフェシュ(霊魂・生命)。ラテン語のアニマ(生命・魂)。ロシア語のドゥフ(精神・霊魂・空気・息)。アラビア語のナフス(霊魂)、ナファス(息)。

古代中国語では「氣」というものに多様な価値を認めておりますが、実際に、「氣」には「天気」「蒸気」「生命」「精神」「霊魂」など多様な意味内容が、その字の内苞に構成されているようです。

わが国の文字学の大家である白川静博士の『字統(じとう)』(平凡社)に

 「气」象形 キ、カイ、キツ、うんき、もとめる雲気(うんき)が空に流れ、その一方が垂れる形。のち氣(气)の初文として用いる、

とあり 「気」形声 キ、ケ、おくりもの、くうき 旧字は氣に作り、气(き)声。
氣(气)がその初文。気には風気、気力、気質など人の性情にもとづくところの意があり、天気ともいう、とあります。

荘子』「知北遊篇」にはこう書かれている

  生は死の伴侶であり、死は生の始まりであるゆえ、どちらの原理か誰も知らない。人間の生は集められた氣に他ならなず、集められれば生があり、散り散りになれば死がある。 
 「生や死の徒、死や生の如、孰(たれ)か其の紀(はじめ)を知らん。人の生ずるは氣の聚(あつ)まるなり。聚まれば則ち生と為り。散ずれば則ち死と為る。」

ギリシアの哲学者アナクシメネス

「まさに空気中にあるプシュケーがわれわれの形を保ち統べるように、プネウマと空気は全宇宙(コスモス)を取り囲んでいる」

といっております。

言葉を超えた世界が、自ら言葉を語る、と弘法大師空海はいいます。曰く

「ことばの根本は法身を源泉とする。この絶対的な原点から流出し、展じ展じて世流布(せるふ)の言葉となるのだ」

と『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』はいいます。

悟りの世界そのものの自己言語化のプロセスとしての言葉、でそれはある。全宇宙を還流して、脈動する永遠の創造的エネルギーであります。すべてを生み、全てを包み込み、全ての存在性を把持する究極の存在エネルギーとしての言葉。井筒俊彦ならば「コトバ」とでもいうでしょう。

『旧約聖書』の「創世記」に曰く、

「始(はじ)めにことばがあった・・・」
 
空海『声字実相義』に、

「内外(ないげ)の風気、微(かすか)かに発すれば、必ず響くを声(しょう)というなり」「四大(しだい)相触れて音響(おんごう)必ず応ずるを名づけて声(しょう)という」

とあります。

背後に巨大な力が働いていることを物語る、無始無終の「力」の存在エネルギー、「神」となすところのもの、でそれはある。その「神」、は不可視、不可触、「声」によって察知する。

また再び『声字実相義』より

「声(しょう)発(おこ)って虚(むなし)からず。必ず物の名を表すを号(ごう)して字というなり」

神の言葉に満ちあふれ、神の声に鳴り響く神的響きの空間となる。

カバリストにとって、神はそのまま言葉である、とはいわない。神の無底の深みに、創造の思いが起こる。すべては神の言葉そのものである。神が言葉を語り続けるから世界が存在し続ける。

言語学いうところの、「シニフィアン」、つまり、音声形象の方が言葉の深層レベルの場合、宇宙的な巨大な「力」、とそれはなる。空海はいう「阿(あ)の声は阿の名を呼ぶ」、極限的な境位での阿の声は、阿の名が呼び出される以前の、純粋無雑な「阿の声」である。宇宙的ア音に、意識と存在の原点が置かれるにいたる。

「五大(ごだい)に響きあり」「内外(ないげ)の五大に、ことごとく声響(しょうこう)を具(ぐ)す。一切の音声(おんじょう)は五大を離れず、五大はすなわち声の本体、音響(おんごう)はすなわち用(ゆう)なり。かかるが故に、五大皆有響という」

「六塵(ろくじん)悉(ことごと)く文字なり」、外的世界、内的世界にわれわれが認知する一切は、ことごとく「文字」である。万物の声に鳴り響く空間が全存在世界で、それはある。

合理的・理性的であることをある意味、誇りとする現代人の目からすれば、コトバの呪的機能などは、ひとつの原始人的な、未開人的な現われとしか映らないとは思われるけれど。

だがしかし、意識の深層のさらなる深みを知り尽くす人々からすれば、コトバの呪的機能を簡単に未開、迷信としては片づけられないし、出来ない。またそういうものとは考えない。

気息こそは、すなわち、命あるものなのであり、そして、発せられたコトバは人を癒すものなのであった。曰く

「おはようございます」「ありがとう」「いただきます」「ごちそうさま」「おだいじに」「おかげんはいかがですか」

などなど、わたしたちの普段から何気なく使っている『日本語』とは、かくも素晴らしい「言霊」であったのだ。

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