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ホリステック・ライフに向けて by 中川吉晴

「行為」の道とは何か -『バガヴァッド・ギーター』を読み解く- vol10 

*TAO LABより
同志社大学Well-being研究センターから2021年3月29日に小冊子『ウェルビーング研究 3』が発行されました。

その冊子には当社刊『神の詩 バガヴァッド・ギーター』を引用しながら同志社大学社会学部教授の中川吉晴先生"「行為」の道とは何か-『バガヴァッド・ギーター』を読み解く- "という論文が掲載されています。

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その論文を中川先生及び同志社大学Well-being研究センターのご厚意によりここに転載させていただけることとなりました。
ありがとうございます。
章単位ごとに12回に分け、連載させていただきます。
今回は10回めです。

では、今此処にいながら中川先生とともに時空を超えたギーターの旅をお楽しみください。

*10 バクティ――信愛の道
 ここまで『バガヴァッド・ギーター』におけるカルマ・ヨーガを見てきたが、クリシュナの中心的な教説として、もうひとつバクティ・ヨーガがある。バクティとは、神、絶対者、すなわちクリシュナを信愛し、神にすべてをゆだねることである。ギーターでは、バクティに関する詩節が数多くあり、それらはギーターの中核をなすものとなっている。いくつかあげておく。

だが全てのヨーギーのなかで最勝の人は
大いなる信をもって わたしに帰命し
常に信愛を捧げて礼拝奉仕する人だ
彼はわたしの最も親しい身内なのだ
(6: 47, p. 117)

彼らのなかでも真理の智識を十分に持ち
清らかな心でわたしを信仰し
常にわたしを想い 礼拝する人こそ最上だ
わたしと彼は互いにこよなく愛し愛されている
(7: 17, p. 126)

ブリターの息子よ 心を他に外らすことなく
専心にわたしを憶念する者は
その常なる信愛行の功徳によって
やすやすと わたしのもとに来る
(8.14, p. 137)

たとえ極悪非道の行いがあっても
専心わたしを愛し わたしに仕えるならば
彼は聖なる人である――なぜならば
根本の決定が正しいからだ
(9: 30, p. 154)

常にわたしを信頼し わたしを想い
わたしに従い わたしを礼拝せよ
常にわたしに身心を捧げている者が
わたしのもとに来るのは当然である
(9: 34, p. 156)

 バクティの文脈のなかで、カルマ・ヨーガはバクティと結びつけられる。

故にアルジュナよ 常にわたしを想いながら
同時に君の義務である戦いを遂行せよ
心と知性をわたしに固く結びつけておけば
疑いなく君はわたしのもとに来るだろう
(8: 7, p. 135)

 バクティがカルマ・ヨーガを完成に至らしめるものとなる。

自分に与えられた天職の遂行を通じて
あらゆる時処に遍在し
一切万有を展開するかれを礼拝する人は
究極の完成に達するのである
(18: 46, p. 280)

 人は意識を神へ向けることによって当該の行為連関から離れるため、行為の結果を執着なく容易に手放すことができるようになり、無執着の行為が完成度の高いものになる。最終の第18章においても、最終の境地としてカルマ・ヨーガがバクティ・ヨーガと結びつけられる。

どんな種類の仕事をしていても
わたしの純粋な信愛者は
常にわたしに保護され わたしの恵みにより
永遠妙薬の住処に来るのである
(18: 56, p. 283)

わたしに頼ってすべての活動をし
常にわたしの保護のもとで働け
至上者であるわたしを信じきって
常に意識をわたしで満たしておけ
(18: 57, p. 283)

 近代インドを代表する思想家シュリー・オーロビンド(Sri Aurobindo, 1872-1950)は、行為の結果について、つぎのように述べている。「結果は、あらゆる働きをする主なる神にのみ属している。それに対して私たちが唯一しなくてはならないことは、本当の注意深い行為によって成功を準備することであり、それが訪れるときには、それを神聖なる主人に捧げることである」(Aurobindo, 2006, p. 60)。つまり、行為の結果だけでなく、行為そのものも神へと捧げられるのである。実際のところ、行為も、行為の結果もすべて神によってもたらされるのであり、バクティは人間における至高の生き方を示している。

 信愛をとおして究極の完成に至ることが起こるとしても、ひたすらにバクティに生きる人、すなわちバクタにとっては、自己への関心が意識されることはなく、ただ神を愛し想いつづけること以外には何もない。この完全なる明け渡しこそがバクティである。実際のところ、バクティ・ヨーガの秘密は「明け渡し」のなかにある。明け渡しは、自分が開かれて対象にみたされることであり、そのなかに神的基盤があらわれてくる。したがって、実際には、何に対して明け渡すかが重要なのではなく、明け渡すことができれば、その対象はいかなるものでも神聖なものになる。そして人がある対象に明け渡すことができるなら、同時にあらゆるものに開かれ、あらゆるものが神聖になる。信愛のなかでは、自力で自我を乗り越えようとする瞑想修行とは異なり、最初から自我は手放され、神に一挙に近づくことが可能になる。このようにして信愛における明け渡しは神的基盤との同一化を可能にする。そしてそれは自己の神的基盤を知ることにつながる。それゆえ、クリシュナを信愛することによって、人は究極の完成に達する。

 インドではクリシュナ信仰をとおして熱烈な愛の宗教が育っていった。クリシュナ信仰はヒンドゥー社会でもっとも強力なものとなっているが、ほかにも、ラーマ、シヴァ、カーリーなどが広く人びとの信愛の対象になっている。また、神秘詩人のカビールや、20世紀の神秘家メハー・ババは、インド・スーフィズムの伝統を受けて神への愛を説いた。ベンガルのバウルたちは愛の吟遊詩人として知られており、ラビンドラナート・タゴールはカビールやバウルの影響を受けて詩作をしている。このようにインドでは「愛の道」は大きな流れをなしているが、この道自体は普遍的なものであり、キリスト教におけるイエスへの愛や、イスラーム神秘主義スーフィズムに見られる。また浄土系思想は日本におけるバクティの教えにほかならないと言えよう。

 『バガヴァッド・ギーター』の第7章から第12章にかけては、神としてのクリシュナについて述べられている。クリシュナは万物を超越すると同時に、万物に内在する神である。

森羅万象いかなる処にもわたしを見
わたしのなかに森羅万象を見る人を
わたしは必ず見ている
彼は常にわたしと共にある
(6: 30, p. 112)

 クリシュナは万物を完全に超越し、万物の内にはない。それゆえ万物を超えて包むものである。

非顕現のわたしのなかに
この全宇宙はひろがっている
全ての存在はわたしのなかにあり
わたしが彼らのなかにあるのではない
(9: 4, p. 146)

 さらにクリシュナは万物の源である。

だが万物が物質としてわが内にあるのではない
これは至聖不可思議の秘密力なのだ
わたしは全生物の維持者であらゆる処にいるが
宇宙現象の一部ではなく創造の源泉なのだ
(9: 5, p. 146)

わたしは霊界 精神界 物質界全部の根源
わたしから万有万物は発現し展開する
(10: 8, p. 161)

 アルジュナは、クリシュナがどのような存在なのかを知りたくなり、クリシュナにその本当の姿を見せてくれるように頼む。

もし私にあなたの宇宙的形相を
見る資格があると思われたなら
なにとぞヨーガの支配神よ
あなたの宇宙相を私にお見せ下さい
(11: 4, p. 176)

 第11章でクリシュナがその本当の姿を見せる場面が描かれる。

その時 その場でアルジュナは見たのです
神々のなかの神 至上主の普遍相のなかに
無数の宇宙が展開して
千種万態の世界が活在しているのを――
(11: 13, p. 179)

 アルジュナは、クリシュナのなかに、ありとあらゆる世界と宇宙を見て、心底畏れおののいてしまう。ギーターでは、それが詳しく記されている。そしてアルジュナはつぎのようにいう。

あなたの無限絶大な権能も知らず
愚かにもただ親愛なる友人と思いこんで
クリシュナ ヤーダヴァ 友よ などと呼んでいた――
愛するあまりの私の数々の非礼を許して下さい
(11: 41, p. 188)

 シュタイナー(2020)は、最初に紹介した連続講義(ケルンで行なわれたもの)につづけて、翌1913年にフィンランドのヘルシンキで別のギーター講義を行なっているが、そのなかで、アルジュナがクリシュナの本性を見るこの場面にとくに注目している。「アルジュナは、一段一段、クリシュナの本性にまで導かれ、そしてその本性が霊姿となってアルジュナの魂の前に顕現するのです」(pp. 152-153)。シュタイナーはこのように述べ、ここに「人間の魂のもっとも内なる力でなければ体験できないような、この特別の体験がこのように見事に表現されたことは、そもそも他のどこにもなかったことだ」(p. 153)という。つまり、アルジュナがクリシュナの本性を見ることができたのは、彼の認識力がそのレベルにまで高められた結果だというのである。「この体験が可能となったのは、アルジュナの魂がクリシュナを霊視できるまでの高みへ引き上げられた結果です」(p. 158)。シュタイナーは、このアルジュナの体験のなかに人間の進化の方向を見ており、そこにクリシュナによる偉大な賜物があるという。「個々の人間が自分の内部にある諸力を最高のところにまで引き上げ、最高の意味での自己認識に到るときに出会える至上の存在、それがクリシュナなのです」(p. 162)。そして「この人間の魂が達成することのできる最高のものは、自由な魂になることだ」(p. 162)という。それは人間が自分の埋め込まれている物理的・社会的諸条件から自由になることによってはじめて可能となることで、自己意識を獲得するということである。

 ギーターのなかでは、クリシュナを見るには従来の修行方法によるのではなく、信じ愛することこそが必要であると説かれる。

いま君が見ているわたしの姿は
ただヴェーダを学んだだけでは見えない
厳しい苦行や慈善 供犠を重ねても見えない
そうした手段ではわたしの真実の姿は見えないのだ
(11: 53, p. 192)

アルジュナよ
わたしを信じ愛慕することによってのみ
いま君の前に立っている真実の姿を見得るのだ
わたしの神秘に参入できるのは
この方法をおいて他に無いのだ
(11: 54, pp. 192-193)

 ここでバクティがヨーガの中心に置かれる。

常にわたしの姿を心に念じ
絶大不動の信仰をもって
わたしを拝んでいる者こそ
ヨーガにおいて最上であるとわたしは考える
(12: 2, p. 197)

 クリシュナは、アルジュナが心をクリシュナに結びつけ、つねにクリシュナを礼拝し、すべての行為をクリシュナのために行なうことを求める。

信愛行の実習に努めよ
これによってわたしへの愛が目覚めるのだ
(12: 9, p. 199)

 クリシュナは、クリシュナを信じ愛する人に愛をもってこたえる。

わたしを信じ 愛慕し
わたしを究極至上の目的として
この永遠不滅の法道を行くわたしの信者を
わたしはこの上なく愛している
12: 20, p. 203)

 ギーターも終盤に入り、ついにクリシュナはもっとも秘められた教えを告げる。

君はわたしの最愛の友だから
無上甚深の真理を話して聞かせよう
これはあらゆる知識の中で最も神秘なこと
君にとって真実の利益になるからよく聞きなさい
(18: 64, p. 286)

常にわたしを想い わたしを信じ愛せよ
わたしを礼拝し わたしに従順であれ
そうすれば必ずわたしの住処に来られる
わたしは君を愛しているから このことを約束する
(18: 65, p. 286)

 このようにクリシュナは、かぎりない愛こそが存在の神秘を解きあかす鍵であり、至高の道であることを教える。そして最終詩節と呼ばれる一節に至る。

あらゆる宗教の形式を斥けて
ただわたしを頼り 服従せよ
わたしがすべての悪業報から君を救う
怖れることは何もないのだ
(18: 66, p. 286)

 最後にクリシュナは、もはやいかなる形式も必要ではなく、ただクリシュナを信じ愛することによって、あなたは救われると約束する。ここにクリシュナは救済する神としての本性を明らかにする。赤松氏(2008)は「この詩において、明らかにクリシュナの、つまり神の態度が変化しているのである」(p. 197)と述べ、絶対的な帰依の観念はこの詩節によって始まったのではないかと指摘する。

 おそらくは、この詩節の成立をもってはじめて、絶対的な帰依とそれに答える神からの恩寵という宗教的な観念が、明確なかたちをとって現れ始め、その後のヒンドゥー教の歴史のなかで大きく発展することになったというほうがふさわしいであろう。(p. 200)

 こうしてクリシュナはアルジュナを説き伏せ、アルジュナは迷いから抜け出し、戦いに臨むことになる。

クリシュナよ あなたのお恵みによって
私の迷いは消え 正しい認識を得ました
いままでの疑惑は消滅し もう私の信念はゆるがない
あなたのお言葉通りに行動いたします!
(18: 73, p. 289)

 この一連のやりとりをドリタラーシュトラ王に報告したサンジャヤは、話の内容のすばらしさに感極まる。

私は至上主クリシュナと
偉大なる魂アルジュナの対話をこのように聞きました
その あまりにも素晴らしい内容に
私の頭髪は逆立っています
(18: 74, p. 289)

王よ クリシュナとアルジュナの
この驚嘆すべき神聖な対話を
思えば思うほど私の歓喜は溢れ
感動のために心身くまなく震えています
(18: 76, p. 290)

 そして敵方でありながら、アルジュナとクリシュナの勝利を確信するに至り、ギーターは終わりを迎える。

全ヨーガの支配者クリシュナの在す所
弓の名手アルジュナの居る所
必ずや幸運と勝利と繁栄と
そして永遠の道義が実在することを私は確信します
(18: 78, p. 290)


...つづく

*中川吉晴先生 著作


*TAO LABより
たまらなく、美しく、真理、善、感じさせてくれる聖なるやり取り。
いかがですか?

ちなみに日本のマンガ+アニメの三大要素=『愛と勇気と正義』

愛=バクティ・ヨーガ(信愛のヨーガ)
勇気=カルマ・ヨーガ(行為のヨーガ)
正義=ジュニャーナ・ヨーガ(叡智のヨーガ)

と繋がっていると思います。

カリユガの時代、信愛と叡智を行為で顕すことが大切かと思います。

この言の葉もそれを行う勇気を高らかに詠っているかと〜
"かくすれば、かくなることと知りながら、やむにやまれぬ大和魂"
吉田松陰

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