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ホリステック・ライフに向けて by 中川吉晴

「行為」の道とは何か -『バガヴァッド・ギーター』を読み解く- vol6 

*TAO LABより
同志社大学Well-being研究センターから2021年3月29日に小冊子『ウェルビーング研究 3』が発行されました。

その冊子には当社刊『神の詩 バガヴァッド・ギーター』を引用しながら同志社大学社会学部教授の中川吉晴先生"「行為」の道とは何か-『バガヴァッド・ギーター』を読み解く- "という論文が掲載されています。

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その論文を中川先生及び同志社大学Well-being研究センターのご厚意によりここに転載させていただけることとなりました。
ありがとうございます。
章単位ごとに12回に分け、連載させていただきます。
今回は6回めです。

では、今此処にいながら中川先生とともに時空を超えたギーターの旅をお楽しみください。

*6 行為の本質
 1974年の夏、ラム・ダス(Ram Dass, 1931-2019)は、チベット仏教の師であるチョギャム・トゥルンパがコロラド州ボールダーに創設したナーローパ学院(現在はナーローパ大学)で「バガヴァッド・ギーターのヨーガ」と題する講義を行なった(そのときの講義録は2004年に刊行された)。

 ラム・ダス(本名リチャード・アルパート)は、サイケデリックスの実験がもとでハーバード大学教授を辞したのちインドに赴き、1967年、彼のグルとなる聖者ニーム・カロリ・ババ(Neem Karoli Baba, 通称マハラジ)に出会った。そのときのことは有名な『ビー・ヒア・ナウ』に紹介されており、マハラジの言行録である『愛という奇蹟』もラム・ダスが編纂している。ニーム・カロリ・ババの教えは「献身と奉仕の道」である。ラム・ダスはアメリカにもどったのち霊的指導者になるとともに、彼のサーダナ(行)として、さまざまな奉仕活動に取り組んだ。たとえば、それは刑務所で受刑者と一緒に瞑想をすることや、エイズで亡くなっていく人たちへのスピリチュアルケアであった。

 ラム・ダスは、ギーターが私たちの自己定義を拡大し、私たちの生を完全に新しい文脈で見ることを可能にするものだという。彼は講義録『神への道――バガヴァッド・ギーターを生きる』(Paths to God: Living the Bhagavad Gita)のなかで、ギーターの章句をとりあげながら詳細な解釈を加えている。行為について述べている章では、まず義務(ダルマ)を果たすという点をとりあげ、与えられた役割に完全に専心する人に見られる充足感や平静さに注目する。そこでは、すべてが自然の一部であるかのように調和し、行為はまるで自然の法則に従うかのようになされる。これに対し、ラム・ダスの暮らす西洋社会では、そうした行為の質はほとんど得られないという。それは、人びとがあまりにも自分の「メロドラマ」にとらわれていて、それを行為と結びつけているからである。

"私たちはみんなあまりにも自分のメロドラマに巻き込まれており、せわしなく、自分が演じ手であると思い、自分がそのすべてをやっているのだと思っている――だが実際には、すべてただこの法則的なことが生じているにすぎない。なんと奇妙なことであろうか。(Ram Dass, 2004, p. 63)"

 ここでいうメロドラマとは、「私」(自我)という「行為者」(doer)が行為をしており、行為の結果はそのまま私の評価にかかわってくるという思い込みである。このとき行為者は、他者から分離した行為主体として意識される。メロドラマのなかにいるとき、私たちは行為がどうなるかを心配し、うまくいっているかと気にしたり、ミスをしないかと恐れ、マヌケに見えていないかと自意識過剰になったりする。たえず行為のなかにマインドが入り込み、それを評価し、非難し、他者を意識する。多くの場合、行為はその行為のためにあるのではなく、それをつうじて他者の承認や賞賛を得て自己を評価するための手段になる。行為は自我へと関連づけられ、自我をめぐるメロドラマのなかで展開される。

 行為の結果への執着を生みだすのは、自分が行為者であるという意識であり、この行為者意識から解放されることが必要なのである。実際のところ、行為は諸条件の重なり合いのなかで生じるのであり、決して行為者のみがそれを引き起こしているのではない。しかし、私たちはたえず自分を行為者とみなし、行為の主体であると思っている。たしかに行為者という自我意識はいつも行為のなかに忍び込んでいるが、それが行為の主体なのではない。

 ラム・ダスは、カルマ・ヨーガでもっとも大切なことは「行為者」から抜け出すことだという。「あなたは、自分を行為者だと思うことなく行為する。行為はあなたをとおして起こるが、あなたがそれをしているのではない。あなたはそこから抜け出したのだ」(p. 67)。実際、行為者が行為をなしているのではなく、行為はただ起こっているだけである。

"よく見なさい――あなたは何もしていないのだ。あなたがしていると想像するのは、ひとつの妄想である。あなたは行為者ではない。起こっているのは、ただ何百万という法則を足し合わせたものが、あなたをつうじて働いているということだ。 (p. 67)"

ラマナ・マハルシは、身体を行為者と同一視することが根本的な無知であるとし、クリシュナの教えを、つぎのようにとらえる。

"親族を殺すことを正しくないと感じたとき、アルジュナはただ、自分が「行為者」であるという感覚を捨て去るようにとだけ告げられた。それでも最終的に戦うのはアルジュナ自身であった。ギーターに耳をすませることによって、アルジュナは「行為者」であるという感覚を捨て去り、彼が抱いていた疑いは消え去った。仕事は特定の身体によってなされなくてはならず、それがなされたのだ。(Nagamma, 2006, p. 414)"

行為に専心しているとき、行為はそれ自体の法則に従って生じているだけになる。完全な行為のなかでは、メロドラマの主体である行為者は姿をあらわさない。行為者が存在しないなら、結果に執着することもなく、カルマ(業)は残らない。ギーターではつぎのように言われている。


仕事の結果に全く執着しない人は
常に楽しく 自由自在である
あらゆる種類の活動をして
しかも無活動 無業報である
(4: 20, p. 81)


 ラム・ダスは「カルマは、執着された行為の副次的結果である。執着がなければ、カルマはない」(Ram Dass, 2014, p. 35)という。


執着心を捨てて自らの義務を遂行し
その結果を至上者に献ずる人は
蓮の葉が水にぬれないように
あらゆる罪をはじいて 寄せつけない
(5: 10,p. 94)


 『バガヴァッド・ギーター』によれば、行為は、プラクリティ(prakriti, 原質、物質自然)を構成している三つのグナ(guna, 要素)の働きによって生まれるものである。『バガヴァッド・ギーター』の背景にあるサーンキヤ哲学では、存在は霊的次元であるプルシャ(purusha, アートマンに比すべきもの)と、物質的次元であるプラクリティとからなり、プラクリティはサットヴァ(sattva, 純質)、ラジャス(rajas, 激質)、タマス(tamas, 暗質)の三つのグナからなっている。サットヴァは光輝や清らかさの質を、ラジャスは欲望や執着の質を、タマスは迷妄や無知の質を意味する(後述)。諸活動や行為は、これら三つのグナによるものとされる。


物質自然の三性質による活動を
我執の雲におおわれた魂は
自分自身が活動しているものと錯覚し
『私が為している』と思いこむ
(3: 27, p. 65)

だが剛勇の士よ 真理を知った人は
感覚が対象を求め また満足するのを
物質自然の三性質の作用だと徹見して
決して自分の仕事に執着しない
(3: 28, p. 66)

肉体の町に住む主人公は行為せず
また人々に行為させることもない
故に行為の結果を生むこともない
活動はすべて物質界の自然性が演ずるのだ
(5: 14, p. 95)

 行為はグナによって生じるのであり、行為者がそれを引き起こしているというのは誤った思い込みである。行為が生じていても、実際には誰も行為していないのである。
ヨーガの教えを体系化したことで知られるスワミ・ヴィヴェーカーナンダ(Swami Vivekananda, 1863-1902)は、カルマ・ヨーガに関して、世界はいつもそれ自体で完全であり、私からの助けなど必要としていないという点を強調し、行為における「自己滅却」(self-abnegation)と「無私性」(unselfishness)を説いている。

"仕事をするさい、私たちは決してこの宇宙のなかで、いささかでも何かを助けることができるなどと思ってはならない。それはできないのだ。私たちはただこの世界という体育館のなかで自分自身を助けているにすぎない。これが仕事の正しい態度である。(Vivekananda, 1986, p. 106)"

 このような態度で仕事をするとき、仕事の結果に対する執着心は減っていく。世界はすでに完全なものである以上、私たちは無私なる態度でただ善行を積むことが大切なのである。ヴィヴェーカーナンダが善行を勧めるのは、それが相手ではなく自分自身を助けることになるからである。「世界は、あなたや私の助けなど待っていない。それでも私たちは仕事をし、たえず善行を積まなければならない。なぜなら、それが私たち自身への恵みだからである。それが、私たちが完全になれる唯一の道である」(p. 77)。ヴィヴェーカーナンダは、「カルマ・ヨーガは、それゆえ無私性をつうじ善き仕事によって自由に到達することを意図した倫理と宗教の体系である」(p. 111)と述べている。

 また、ニサルガダッタ・マハラジの弟子で非二元(アドヴァイタ)の思想家ラメッシ・バルセカール(Ramesh Balsekar, 1917-2009)によれば、カルマ・ヨーガの要点は、ヴィヴェーカーナンダの言うような無私性の倫理や道徳にではなく、むしろ、それがものごとの現実を端的に反映している点にある。私たちが行為に際して実際に行なえるのは、行為をしようと決めるところまでである。行為をして予想どおりの結果になる場合もあれば、そうならない場合もある。多くの行為では、自分のコントロールの及ばないことが起こり、予想に反する結果になる。

 誰もがふだんから経験していることだが、人が実際に「できる」のは決意するということであり、それ以降のことについては、実際のところ何も私たちのコントロール下にはない。決意は、私たちの運命や神の意思に左右されて、行為に結びつくこともあるし、そうならないこともある。行為は実際に起こったとしても、望まれた結果を生みだすこともあるし、そうならないこともあり、それもまた私たちの運命や神の意思にかかっている。これが私たちの日常の経験である。いったん私たちが決断すれば、そのあと何が起ころうが、決して何ひとつ私たちの手の内にはない。(Balsekar, 2003, pp. 213-214)

 したがって、大切なのは、未来に生じる結果については自分がコントロールしえないことだと理解して、それを手放すことである。個々の行為は現在の瞬間に属しているが、結果は未来に属しており、それは数多くの要因によって決定されるため、現時点では不確定であり、それゆえ結果に関しては、そもそもどんな期待も抱くことができない。私たちはただ自由に行為し、いまここで起こっている行為に専心するだけでよいのである。
特定の結果を期待するなら、意識の中心は現在から未来へと移り、意識のなかに分裂が生じ、そのため現在の行為への十分なかかわりが妨げられる。逆説的だが、結果への期待をもたず全面的に行為に専心しているとき、その行為はより多くのエネルギーを結集することができ、(予期せぬものもふくめて)実り豊かな「結果」に至りつく。行為それ自体は何らかの結果を導きだすものであるが、期待が結果へと導くということではない。結果に焦点を合わせているなら、それは妨げになるだけである。

 結果を手放すことは、同時に、生や存在への深い信頼を必要とする。生は不可測であり、それがもたらすものを何であれ信頼することが、結果を期待しないということである。仮に全力で行為を遂行するとしても、結果についてはすべて生のプロセスに明け渡し、神の手にゆだねることが重要である。反対に、特定の結果への期待があるときには、生への信頼がなく、生の特定の断片を切り取って、それを固定しようとしていることになる。このとき生との調和は失われ、生に分裂と対立を持ち込むことになる。対立があるとき、行為は失敗に終わる。結果を神にゆだねるとき、私たちは全宇宙のエネルギーにみたされ、支えられる。

...つづく

*中川吉晴先生 著作

*TAO LABより
ラムダスの初期のこの著作、インパクトありましたね。
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