俺がカッコイイ地球人だとおもう一人。
久しぶりに遭遇。さらにかっこよくなっています〜超渋っ!
出来ればメディスントーク→サムライセッションと続いたトークライブの第三弾でお願いしたいと思って動き始めました。
この方はキャラがとても立っており、イカス!のであえて誰かは言わず、まずは彼の文章に浸ってください。これまた、最高なので!

おおっ?何で十字架にかけられたウルトラマンの写真が・・・
以下彼のブログから・・・
●山路
山路を登りながらこう考えた。
智に働けば角が立つ、情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安きところへ引越したくなる。
どこへ越しても住みにくいと悟った時、
詩が生まれて、画が出来る。(夏目漱石「草枕」より)
鉄馬に跨り都会を離れ、自然の中に入ると、日本も棄てたものでない。
「ものは心で見るんだょ。大切なものは、目で見えないんだ」と
アントワーヌ・サンテクジュペリが、「星の王子さま」の中で語っているが、まさにその世界を垣間見せられる。
人々が群がる都会の中では、勝ち組に負け組、地位に名誉、金に数字が偉ぶってる。でも、自然の中に入ると格差社会は通用しない。
逆に己の生き方を、吟味させられる。
冒頭の言葉は、夏目漱石の「草枕」に出てくる詩である。
都会の中での生活では、人との関係において角が立ったり、情に流されたり、意地を通すことで、窮屈になったりするものだ。
人が蠢く社会の中で、心はぶれ易く、人の良さより人の醜さが溢れ出るようでもある。
自然の中に入ると、主観的客観性なのかもしれないが、見失っていた大切な事に気づかされることが少なからずある。
此の度は青森・北海道を中心に鉄馬を馳せて旅をさせていただいた。
津軽平野に聳える岩木山や、雲々の煙りの中に身を隠す盛岡の岩手山。
熱い陽射しに黒く日焼けした福島県北部にある、会津富士ともいわれる磐梯山。
また北海道の旭川の近くにある、花踊る美瑛から見た大雪山。
更に旅の帰路に見た新潟の南西部に聳える妙高山と、日本には無数の美しい山々が聳え立っている。
山路を登り下りしながら考えるひとときは、まさに心をニュートラルにもどす尊い時でもあった。
春には美しい花を咲かせ、それを身に纒い、夏は小麦色の美しい肌を披露する。
秋には粋な紅葉の着物を着こなし、冬には白い雪の衣に身を包み、その荘厳なオーラで我等を魅了する。
そのような山々を観る時、唯「凄い」「ウォー」と叫び声が自然と我が内から湧き出てくる。
何時の間にか都会の中での嘆き、苦しみ、溜息、悲しみが美しき景色の中に吸い込まれ、浄化されてゆく。
失ってはならない、大切なものが人間にはあることに気づかされる。
●COFFEE BREAK (お茶の時間)
珈琲
神聖なる 大陸の香り
繊細に 広がる苦味
精錬された 円やかな甘味
煌く褐色の泉
其の言い様のない濃
くちづけるものに 郷愁を目ざめさせる
味わう者を 永久へと旅立たせる
珈琲ブレイクと言うと忙しく働いていた者が、一寸した休憩を取り
再び仕事に向かって行く為の気分転換の時間である。
一杯の珈琲を味わう一時が、心身を回復させるために、人の知恵が
生みだした習慣と言ってもよいだろう。
日本には古くから茶会と言うものがある。
雑然とした暮らしの中に身を置きながら、そこに美を見出し、敬い
尊ぶ礼儀と言われている。
四畳半の茶室の中に、四・五人が無言で茶を交わしながら、外の大
宇宙を体感する小宇宙の空間なのである。
茶気という言葉があるが、茶目気という言葉はここから来ている。
『茶目気がない』また『茶目気がありすぎる』という表現の中に、
茶道の気、また、その心得の大切さが込められている。
私達の心は日常生活において乱れやすいものである。其のような中
茶道は『不完全ということへの崇拝』として行われる。
つまり、物事には完全などということはない、ということを畏敬の
念をもって受け入れ処すること、不可能を宿命とする人生のただ中
にあっても、それでも、なにかしら可能なものを成し遂げようとす
る心優しい試みなのである。
象牙色の磁器に満たされた琥珀の液体のうちに
心得ある者は、孔子の甘い沈黙、老子のぴりっとした刺激
そして、釈迦その人の霊妙な芳香を味わう
( 岡倉 天心 )
茶道には、仏教の死に対しての心構え、禅にある言葉の領域を越え
て思想の領域へと瞑想をもって到達しようとする人間の努力、
ようするに完全なものと一つになろうとする試み、また孔子の儒教
的な教え、そして老子の道教にある、もの事を部分的に観るのでは
なく相対的に観る思想が含まれている。
一杯の茶を立てる、これが最後。
一人の客人を持て成す、これが最後。
という一期一会の精神もここから生まれている。
人に、そして自分に対して今を大切に、また、丁寧に生きて行く術
を茶道に学ぶことができる。
西洋化されているこの時代に、少しは東洋的なもの事の取り組み方
も、今を生き抜いてゆくためのヒントになるかもしれない。
なにはともあれ
ENJOY YOUR COFFEE BREAK!
●桜
明日ありと 思う心のあだ桜
夜半に嵐の 吹かぬものかは <親鸞>
明日も美しい桜が咲いているだろうと安心していても、夜中に嵐が吹いて、みな散ってしまわないとは限らない。
そのような意味を含んでいる浄土宗、親鸞の和歌である。
美しく粋に咲く桜を花見するのは、日本人としての心情ではなかろうか。
忙しさの中で暫しの暇をとって桜を見る時に、いのちの尊さ、豊かさを覚えさせられるものである。
然し明日も桜が見れると思っていても、嵐が遣って来るとその願望も失望へと変わってしまう事がある。
われわれの日常生活においても、期待とは裏腹に自分の思い通りにならないことや不条理なことなどが時としておきてしまう。其のような時に訪れる無常感は散ってっゆく桜の花びらや、また散ってしまった桜に似ているのかもしれない。
いざさらば 死にげいこせん 花の雨
死に支度 いたせいたせと 桜かな <一茶>
散る桜 残る桜も 散る桜 <良寛>
昔の日本人は自然から、人生においての大切な生や死についての教訓を学びとっていたように思う。無意味に時間に追われて忙しくするのではなく、無駄と思えるような暇をつくって、自然の営みをじっくり味わってみてはどうだろう。
損や得では比較できない豊かさが、心と体に訴えてくるに違いない。
・・・「生き方」から紡ぎ出される流石の文章です。
トーク決まったらあらためてご紹介させてください。