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青山堂運歩 by 川島陽一

共鳴し合うコトバ

わたしたちの住みくらす現実の自然界、この場所、この空間では、物理的空間の一部を一つの物体が専有すると、他の物体はその場所を専有することが出来ません。物体と物体とはお互いに排除し合うことになります。

しかし、わたしたちの感覚を超えた世界におもいを馳せると、一つの物体の専有している空間に他の無数に多くの物体が働きかけていることになる、つまりある意味では受け入れているということが出来ます。

わたしたちのおこなっている、『調律』=『頸部前彎療法』では、音叉の共鳴を利用する方法を確立していますが、今日はその秘密を公開しましょう。といって、決して難しいものではありません。**C128の音叉**をご用意ください。それを、ギターやピアノの調律の時と同じように叩き、首の後ろ、脳幹部を意識して近づけるとカイロプラクティックの、いわゆる、スリーリングが共鳴を始めます。共鳴が始まれば、調律は終了です。

インドのどこかでつくられ、西域で信奉されるとともに、シルクロードをへて中国、そして朝鮮・日本に伝わる『華厳経』は日本仏教でもとくに重要な位置を占める経典です。聖武天皇の時代、奈良の東大寺に大仏さまがつくられますが、西暦紀元752年に行われたこの大仏さまの開眼供養のとき、その儀式の導師となったのは菩提僊那(ぼだいせんな)、元の名前はボーディセーナ(bodhisena)という、インド人の僧侶でした。海を越えたかなたから、インド人のお坊さんが見えました。

インドからシルクロード、中国、朝鮮半島、日本、さらに南海の島国ジャワにいたるまで、全アジアが『華厳経』の描く壮大な情景を思い描き、かつ精神をともにしていたということができます。全アジアが同じ精神的理想を掲げて体動していたともいえましょう。

『華厳経』の趣意は「事事無礙(じじむげ)」の法界(ほっかい)縁起の説にもとづいて菩薩行を説いているのだといいます。事事無礙について説明いたしますと、たとえば、わたしがここで語り、読者のみなさまはそれを聞いてくださっています。明らかにわたしがいる場所と、みなさまがおられる場所はちがいます。さらにまた、お互いにまた、別の人格です。ですが、目に見えないところでは、ご縁によってつながっている。何か精神的に共鳴するものがあり、何かお互いに響くものがあるからです。

なぜ、そういうことができるのか。それは、これまでわたしたちの先達者、あるいは祖先の方々が、わたしたちを人間として育ててくださった、尊いものを伝えてくださったからである。わたしのこのつたない話を聞いたくださった方々のなかに、遠い昔の日本人の祖先がいまなお生きておられる。わたしのなかにも生きておられる。先達の方々や祖先の方々は、もはや過ぎ去って、そのすがたを見ることはできませんけれど、わたしたちに見えないところから力を与えてくださった、ということは疑いのない事柄です。

さらに範囲を広げて考えてみますが、いまわたしたちの地球の上には、それぞれの国の人びとがそれぞれ生きて活動しています。関係はないようですけれど、実は同じ地球の上でいま生きているという共通の運命をもっている。生きている人はみな、遠いかなたの太陽の光を受けて生きている。太陽の光がなかったならば、わたしたちは生きていくことはできないのです。遠いかなたのものが、わたしたちひとり日本の人々ばかりでなく、外国の人々のあいだにも力を及ぼしているということができます。

一見したところで個別的に異なっている事と事、つまり事物と事物は決して無関係のものではない。目に見えないところで結ばれている。わたしたちの経験、体験の世界では別々であるけれど、真理の世界からみるとお互いに寄り合っておこっている、言い方をかえると、ありとあらゆるものがお互いに原因となり結果となり、連鎖の網で結ばれている。

その道理を体得しますと、他人というものが他人ではなくなりますね。わたしたちが存在している限り、生きている限りは必ず自分のためを考えます。と同時に他人が別のものではないわけですから、他人のためをも考えることになる。

「事事無礙」という考え自体、すなわちありとあらゆる事物、事象が互いに浸透し合い、相即渾融するという存在論としての思想そのものは『華厳経』に特有なものではありません。洋の東西を超えて、世界の多くの思想の中心的な役割を果たしてきました。

例えば、中国古代の哲学者、荘子の「渾沌(こんどん)」の考え、後期ギリシア、新プラトン主義の始祖プロティノスの存在ヴィジョン、西洋近世のライプニッツの「モナドロギー」イスラーム神秘主義の哲学者、イブン・アラビーの「存在一性論」もその典型です。

ですが、わたしたち日本人が、あまりにもあたり前のように、空気のごとく普通にすごしていてわすれている、山や河、草木や土、池や湖に、メダカや蛙、蝉や鈴虫にいたるまで、どこにでもあるひとつの命にたいしての心もち、気づかいもまた、「事事無礙」といえないでしょうか。

すべては、共鳴しあうもの、であり、本質的には置換可能性の連鎖のなかで、自己と同一でありしかも他者である、それぞれの事(こと)と事(こと)が、より美しいある詩(うた)、へのことばのおきかえの冒険とチャンス、それを歌い、それを書き、それを転写することに共鳴の可能性がかかっているのだ、とおもうのです。

共鳴しあうものとは、みなさんの、それぞれの生み出し導き出す、あるひとつの、コトバ、であるのです。


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*TAO LABより

**C128の音叉**

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