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シン・カガク

大東亜戦争におけるアメリカと日本...その雛形とも言える大日本帝国と大本教の関係

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*TAO LABより
大本教は明治末から昭和初期にかけて急速に台頭したシン・宗教であり、その霊的世界観と社会変革的ビジョンは、当時の天皇が絶対的な現人神であるという国家神道体制にとって明らかな異物でした。特に「世界立替え立直し」という悔い改めを促す教えや「天皇を超える神意の啓示」ともとられかねない教義体系は、明治以降の国家神道体制により国を維持していた国家にとって、受け入れがたい「霊的主体性=霊主体従」を掲げていました。

この新たな、実は本質的な真理という息吹は、「体主霊従」唯物国家にとってはあまりにも危険であるとされ、1921年と1935年、二度にわたり徹底的な弾圧(特高警察による一斉検挙、施設破壊、教義の封殺)が行われました。教祖出口王仁三郎はじめ多くの方たちは獄に繋がれ、酷い拷問を受け、障害者や死亡者が多数出ました。聖地・天恩郷は徹底的に破壊され、まさに「焼け野原」に近い精神的壊滅を経験します。

第一次大本事件1921年(大正10年)
2月12日午前9時、綾部の大本の本部に、およそ200人もの警官隊が突入しました。
この弾圧の命令は、検事総長の平沼騏一郎(後に総理大臣になりました)が下し、直接の指揮者は京都府警察部の藤沼庄平でした。
当時巷では、大本には武器弾薬が山ほど隠されているとか、鎮魂帰神(魂鎮めの修業)で片っ端から夢遊病者にされてしまうとか、武道に練達の青年が手ぐすね引いて待ち構えているとか、奇怪なウワサが流れており、それを鵜呑みにして信じていた警官たちは、決死の覚悟で大本に突入したのでした。
その日、出口王仁三郎は大阪・梅田の大正日日新聞社に出張しており不在...
捜索は綿密周到をきわめ、土足で踏み込むと、部屋という部屋の障子・襖を開けっ放しにして、押し入れ・タンス・本箱・机などを片っ端から引っかき回し、筆先・日誌・原稿・書簡・帳簿・写真など、およそ大本に関係ありそうなものは手当たり次第に押収して持ち去りました。
当局は大本を国家転覆の陰謀団体として、内乱予備罪を適用して一気に葬り去るために、始めから捜索の目は、陰謀を裏付ける証拠物件を探すことに向けられていました。
秘密文書や、竹槍・刀剣・爆弾などの凶器類、軍資金、地下室などです。
警官隊は必死で探しまわった結果、200振りの日本刀を見つけましたが、これは愛剣家の信者が入信のときに献納したものでした。鉄砲や竹槍は一本も出てきませんでした。

この事件、下記のように予告されておりました。
「三年さきなりたらよほど気をつけて下さらぬとドエライ悪魔が魅(み)を入れるぞよ。辛の酉(大正10年が辛酉─かのととり─の年にあたる)は、変性女子(王仁三郎のこと)に取りては、後にも前にもないような変りた事ができてくるから、前に気をつけておくぞよ」
これは大正7年に降りて翌8年1月号の機関誌で発表された神諭です。

また明治33年にはこのような神示が〜
「艮の金神の教が拡まるだけ、世界は騒ぎ出すぞよ。何も訳も知らずに方々の新聞が悪く申して、体主霊従のやり方で邪魔を致すようになるから......」
さらに
「この大本は世間から悪く言われて、後で良くなる神界の経綸(しぐみ)であるぞよ」
という神示が出ています。

第二次大本事件1935年(昭和10年)
第二次大本事件(1935年12月8日早朝より)は、近代日本史上最大規模の宗教弾圧とされ、内務省主導で全国の大本施設・信者宅が捜索され、3000人以上が取り調べ、987人が検挙され、王仁三郎ら61人が不敬罪・治安維持法違反で起訴されました。
新聞は大本を「日本人として許しえぬ不敬不逞の国賊の団体」「国体変革を企図せる陰謀団体」と断罪し、社会は信者や子供にまで差別の目を向けました。亀岡の月宮殿は1500発以上のダイナマイトを使って3週間もかかって粉々に破壊されました。
揚句の果てには、綾部と亀岡の神苑の敷地を当局が勝手に地元自治体に売却、徹底的に抹殺が図られたのです。

取り調べは過酷を極め、王仁三郎も幾度も失神し、三代教主補の出口日出麿は、熾烈な拷問の結果ついに精神に異常を来たしてしまいました。
その悲鳴は王仁三郎の独房にまで聞こえ、

拷問にかけられ我が子のヒイヒイと苦しむ声を聞くは悲しき
日出麿は竹刀で打たれ断末魔の悲鳴あげ居るを聞く辛さかな

という悲痛な歌を詠んでいます...その拷問で16人が獄死しています。

1936年に起訴、第一審(1940年)で全員有罪・王仁三郎は無期懲役となるが、第二審(1942年)では治安維持法違反は無罪、不敬罪のみ有罪となりました。
なお、第二審公判中の昭和16年12月8日、ついに日本はアメリカに宣戦布告をし、世界を相手にた無謀な戦争が幕を切りました。奇しくも6年前、第二次大本事件が起きたのと同じ日に、戦争が起きるとは......

その後、さらに大審院への上告を経て、1943年(昭和17年)8月7日、6年8カ月の獄中生活の後、王仁三郎らは保釈されました。
王仁三郎はすでに70歳を超えていました。

王仁三郎は自分が出所したときから日本は負け始めると予告しましたが、同じ日にソロモン諸島のガダルカナル島(日本が占領していました)に連合軍が上陸、このときから日本は敗戦は色濃くなっていったのです。

開戦を決めた東条英機内閣は戦局を打開できず19年7月に総辞職。その後、小磯国昭と米内光政の連立内閣が誕生しましたが、王仁三郎は、
「ソロモン戦(ガダルカナル戦)からソロソロ負けて、小磯づたいに米(べい)内(うち)にはいる。小磯米内(ようない=よくない)、国(くに)昭(あけ)わたす」
と語呂合わせで予言しました。

翌20年4月に今度は鈴木貫太郎が首相になると、すかさず、
「日本は鈴木野(すすきの)になる」「日本はなごうは(=長くは)鈴木貫太郎(つづかんだろう)」
とシャレを飛ばして日本の敗戦を暗示したそうです。

17年4月18日に本土が初空襲にあいました。
これは奇しくも6年前に綾部・亀岡の神苑が当局によって無理矢理売却させられ所有権が綾部町・亀岡町に移ったのと同じ日でした。

以後、本土各地は空襲によって焼かれていったのです。
王仁三郎は、「東京は空襲されるから早く疎開せよ」「大阪は焼野ヶ原になる」「九州は空襲の本場だな」「京都は安全、金沢は空襲をうけない」など、いちいち信者に指示を与えました。
さらに、「火の雨がふる。火の雨とは焼夷弾だけではない」「新兵器の戦いや」と語り、「広島は最後に一番ひどい目にあう。最大の被害を受けて火の海と化し、それで戦争は終わりだ」と原爆投下まで予言していました。

この構図は、1945年の日本の終戦、焼け野原の姿に重なります。

アメリカが日本に対して投下した原爆は、物理的破壊であると同時に絶対的暴力であり、日本的な霊性・文化・共同体精神そのものに対する断罪・浄化のような様相を帯びていました。
つまりこれは、西洋的な合理主義・近代的普遍主義(アメリカ)が、"異なる霊的世界観"を持つ存在に下した裁きとも読めます。

この点において、日本という「近代西欧とは異なる世界観を宿す文明」は、大本教と同様、その異質性ゆえに力によって粉砕されたとも言えます。

また、日本の「ミカラダ」ともいえる国土に落とされた二発の原爆は、かつてイエスを十字架にかけるために手首に打たれた二本の釘を想起させます。さらに、311の福島は三本目の釘となり、国土はイエスのようについに完全に磔にされたかのようにも見えてきます。

しかし、破壊は終焉ではありません。イエスが死から蘇ったように...

大本教は、表面的に壊滅させられながらも、地下で信仰をつなぎ、戦後には再び息を吹き返します。ただしその後、第三次大本教事件とも云える内紛が起こり、今に至ります。こちらも生前の王仁三郎は予言していました。
パワーゲームにより内側から壊れていく...人間の集団の愚かな一面でもあります。
敗戦後の日本もまた、焼け野原から立ち上がり、奇跡的な経済復興を遂げる一方で、外から押し付けられた民主主義の制度を内的に消化し、「和」と「近代」の奇妙なハイブリッド国家として生まれ変わったのです。

物質的には復活しましたが、元来の日本精神は囚われ、80年が過ぎました。
こうして見てみると、国家にとって危険とされた大本教の運命は、最終的に国家そのものが外部(アメリカ)によって体験させられた構図として、驚くほど重なります。

大本教=国家が封じた霊性
日本=アメリカが裁いた文明

いずれも「異なる秩序への恐れ」が引き金となり、徹底的な破壊を受けてしまいました。
だが、モトたる「霊性」は殺せるはずがなく、、むしろ新しいかたちで甦る、大本教の弾圧史は、日本という国のカルマの予言的雛形であったとも言えるのではないでしょうか。
予言、「当たるも八卦、あたらぬも八卦」といわれますが、天からのシンのメッセージは科学を超えた、まさしく、シン・カガクかと。
積哲夫さん曰く『大本教は実は大日本教だった...』という指摘、ズシッと腑に落ちますね。
いかが思われますか?

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出口なお

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出口王仁三郎

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