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アフター567 一体全体ありゃ〜何だったの?考えさせられたこの映画『フロントライン』超オススメ!


フロントライン予告編

*TAO LABより
数年前、世界全体を覆ったあの"コロナ禍"──あれはいったい、何だったのでしょうか?

当初、私自身も「未知のウイルス」ゆえに警戒しました。
ところが、報道機関、政府、関連団体による過剰な情報発信と煽動的な言動、それに反応する世間の同調ぶりを見ているうちに、かぶき者気質の私は、ふとこう感じました。
「これは本当に善意からの行動だろうか? どこか、悪意のような波動を感じる...」と。

また、この一連の混乱のなかで、経済的な利得や補助金の恩恵を狙う動き、さらには権力者にとって都合のよい「管理と統制」を強めようとする空気が一部で広がっていたことにも、私は違和感を覚えました。
それは、目には見えにくいかもしれませんが、自由のあり方を静かに揺さぶるものであったと感じています。

そう思った私は、ワクチンを打たず、自身の身体で試してみる道を選びました。
医療や薬に安易に頼ることなく、自らの日々の「食」と「生活のリズム」を整えることで、本来備わっている生命の免疫力を信じる、、、私の基本は、そこにあります。

「死ぬときは死ぬ」〜その当たり前のことに過剰な不安を抱えて生きることは、もうとうに手放しました。
そういう意味では、「死ぬこと」そのものを恐れているわけではなく、むしろそれを当たり前の現象として受け入れています。
さらに踏み込んで言えば、この肉体を離れた後に何があるのか、この次元における「生」と「死」の本質とは何か──そうした問いは、私にとって深遠な興味の対象であり続けています。

「生きてる」限りは、明るく、愉しく、朗らかに。
どこまでも脳天気にポジティブでいること──
それこそが、免疫力を支えるもっとも確かな土台だと、私は信じています。

「もし自分が感染したら他の人に迷惑がかかる」という声も少なくありませんでしたが、この "一方的な迷惑" という考え方は、立場を変えて見れば、時に非常に限定的で、それが正義や善意の名のもとに過剰になると、知らず知らずのうちに他者を裁き、排除する方向へ傾く危うさを孕んでいます。

皮肉なことに、私のまわりではワクチンを接種した方々が、にも拘わらず、次々と感染し、一方でワクチンを打たなかった私自身は感染することなく、結果として、「他人に迷惑をかける」ということのないまま、日々を過ごすことになりました。

誰かを思いやる気持ちはとても大切ですが、それが「皆が同じ選択をするべきだ」という圧力になった瞬間、もともとのやさしさや配慮の本質から、少しずつ遠ざかってしまうのではないでしょうか?

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で、こちらの映画『フロントライン』...この映画には、現代のマスコミやSNSを通じて拡散される「無知」「中傷」、そしてその「無知」「中傷」に寄り添うように潜む「悪意」について、深く考えさせられるものがありました。
情報に触れるとき、私たちはどこまで自分の判断で受けとめているのか──真摯に問いかけてくる、そんな作品でした。

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役者の方々には毎回深く感嘆させられますが、「演じる」という才能の素晴らしさは言葉に尽くせません。
特にポスターに登場する4人のイケメン俳優たち──彼らの演技は、まるで役ではなく本人そのもののように感じられ、心から天晴れと称えたいほどです。
なかでも窪塚洋介さんは、その役柄がまるで彼自身と重なるかのようで、思わずシビれてしまいました。

余談ですが、ある監督と配給会社に盗まれた私が企画から7年以上をかけたドキュメント作品のナレーションを当初から窪塚さんにお願いできないかと事務所に相談していました。
主要登場人物のひとりが現役のヤクザの親分であり、スポンサーや社会的なコンプライアンスの関係から、一度は断られました。
しかし、そのヤクザの親分がカタギになったことをきっかけに、結果的に窪塚さんが引き受けてくれたこと、漢気を感じるとともに深く感謝しています。

とはいえ...私を裏切り、完成させたその作品そのものは...彼自身の人間力や精神性、センスが反映された結果として、誠に残念ながら納得のいくものにはなりませんでした。こちらの信頼を悪用し、自らの我欲のエサとする...愚かで卑怯、哀れな存在...と言わざるを得ません。

「騙す人間が悪い」のは当然ですが、「騙される側にも責任がある」という意見にも一理あります。結局のところ、「誰と組むか」という判断は非常に重要であり、自分自身の甘さやおバカさ加減をあらためて見直す必要があります。

"答え"は?
多くの人が "答え" を安易に求めることに懸命になっているけれど、本当に大切なのは、与えられた "答え"ではなく、自らの内に芽生える "問い" の気配に耳を澄ますことが大事だと思います。
自らの内なる "問い" が生じなければ、"答え" に辿り着けません〜他人に与えられた "答え" をそのまま頭で鵜呑み、刷り込むのではなく、切磋琢磨試行錯誤 "答え" を自ら探求し続けること、これこそが生まれてきた目的だとも言えます。

私は、肉体離れるまで "答え" の探求の旅を楽しむつもりですが、そこに辿り着くための "方向性" として身体も価値観も多様であることを前提に、それぞれが"選択の自由"と、そしてこことても大事ですが、"自己責任"をもって生きること、その結果からしか、本当のシンの健康な社会は産まれない〜のではないでしょうか?
どう思われますか?

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