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青山堂運歩 by 川島陽一
無一物中無尽蔵
普通の人の日常意識、つまり、私たち凡人のということだが、世界を「区切り」としてのみ体験し、その世界が「区切りのない」姿として顕れる、とは、決して思わない。「区切り」ありを見るからこそ事物は個々別々に見えるのであり、それが常識、というものである。
ところが、ここに「複眼の士」(スーフィズム―イスラーム神秘主義)が存在する。イスラームでは最高位に達したスーフィー(イスラームの神秘家)をこう呼ぶ。この「複眼」とは物事を二重に見るということで、「区切り」を区切りとして観ながら同時に、「区切りなし」も観る。禅ではこれを、「無一物中無尽蔵」と言う。
言葉(意味)を超えたところに立ちながら、言葉(意味)が現出する多彩な事物世界を見直す、とも。言葉を超えた位相を見ながら、言葉を大切にする。あるいは、言葉を語りながら、言葉を超えた位相を大切にする、とも。
人は世界を恣意的に区切っているのだがそのことに気がつかない。自分が見ている姿が、そのまま世界の真の姿であると思い込んでいる。例えば視覚という区切り(フィルター)を通して、物を、世界を見、体験している。「区切り」とは私たちが自らの感覚器官(ここでは視覚)に合致する仕方で区切るので、それを恣意的であるとは気がつかない。文学博士の小西甚一氏によれば、虹を五色と見る言語を母語とする人の眼には虹は五色と体験され、虹を七色と見る日本語を母語とする人の眼には、確かに虹は七色として現われる。
私たちは、「区切り」を恣意的に引くのだが、宇宙から地球を見れば、そこに国境線がないようにもともとの世界に境界線はない。私たちは自らの感覚器官に合致した仕方で区切るから、恣意的であることに気づかないのである。
言葉で区切ることは単に区切るのではなく、言葉がその区切りを固定するのだ。日常存在するところの区切りは、「本質」によって本質的に固定された実体として、他の実体から区別される。仏教哲学はそれを「自性」とし、「実体性・固定性」をその特徴と定義づける。
ところが、「複眼の士」を超えたところに日本的な思惟が存在する。本居宣長を見てみよう。宣長は、「歌の事」は「道の事」に直結する、という。
「父母を見れば尊し妻子(めご)見ればめぐし愛(うつく)んし世の中はかくぞことわり」『万葉集』巻第五(山上憶良・長歌の冒頭。宣長にとり、自然(おのずからしかあること)は、自然の神の道を離れて在るわけはなかった。
「事しあればうれしかなしと時々にうごくこころぞ人のまごころ」、人のあるがままの心は、まことに脆弱なものであるという疑いようのない事実の、しっかりした受け入れのないところに、正しい生活も学問も成り立たぬという、彼の固い信念に大事がある、と『古事記伝』を解説する。
小林秀雄は語る。「うごくこころぞ人のまごころ」というところは、動かなければ、心は心であることをやめる、うごかぬ心は「死物」であるということなのである。
また、宣長はこうもいっている。「わが心ながら,わが心にもまかせぬ物」。わたしの命令になど、決して従うものではない、その不思議には、よほど注意する必要がありそうだ。そして注意の矛先をむける必要は対象と自我との対立はないと言うところにもありそうだ。
美しさはただその律動にかかっている。感情の捉えかたの巧妙さ、描写の減鋭というようなことは、決して問題ではない。それを問題にするにはあまりにも単純にすぎるきらいがある。ただそのシンプルさの潜む感情を、いかに力強く響き出させているか、いかにその喘ぐような情念を、言葉のはしはしに生かせているか、それのみが、宣長の価値を創る、というより、古代人の価値を創るのだろう。彼我を一にしてうたうところの直接法である。
比喩とは、直接的に言おうとするところを、力強く豊富に表現するために、内的に似通ったほかの表象を附加することである。隠喩とは、主になる表象を後方に退け、それと内的に類似する他の表面に出すやり方である。美しさの律動からさらに進めて、切断的融合という概念を考えてみる。
脳幹を脊髄を通して全身にもたらしている人体の神経網を考えてみると、カイロプラクティック的には、頭蓋骨、頸椎一番、頸椎二番の(スリーリング)の切断的融合という集合的概念が成り立ちうる。集合的概念を使って、和歌の世界を探求してみようと思う。
「我せこをやまとへやると小夜ふけて暁つゆに吾立ちぬれし」(万葉集 二)
作者は別離の悲しみを凝視するゆえに恋の過去を顧みるような余裕は持たない。万葉の歌は、詠嘆すべき情緒を鋭く一点に集中して表現する。ある刹那の感動を内から強く捉えることによって、周囲の情景や恋の歴史などをその感動に浸してしまう。そこには、自我と対象との対立はない。その美しさは、ただその律動にかかっている。その単純な感動をいかに力強く響きだせているか、それのみが価値を創るのである。その意味では、太い線のうねっているような美しさがあると言えるであろう。
新鮮な驚異の情に充ちた古代人の心にとり、恋の苦悶、恋の歓喜は彼らがその全ての生き活きとした魂を投入するに値する最高の生の瞬間であったし、それをあるがままの生(イネイト・インテリジェンス)の世界と名づけよう。そしてそのことは、いかにも日本の美学であり真心の持つ律動でもあった。