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青山堂運歩 by 川島陽一
D・D・パーマーの思惟過程
D・D・パーマー(ダニエル・デイヴィッド・パーマー)の思惟過程という題のもとで、わたしが語ろうと思うこととは、カイロプラクティック治療家パーマーのこころのなかこころの底で彼の形象(例えば、三つの穴概念)創造生産の母体としてのユダヤ性やユダヤ的次元に関わる思考のこと、なのである。
彼はこう語る。「ユニヴァーサル・インテリジェンスに任せればよいのだ」と。
ひとはD・D・パーマー的知性の最も根源的な部分、彼の思想の実存的な根を見逃してはならないのだと思う。
D・D・パーマーの「ユニヴァーサル・インテリジェンス」を米国版Wikipediaを翻訳したころを思い出してこの稿を書いている。二十世紀初頭のアメリカ。彼は治療家として生き、試行錯誤のすえ、知り合いのギリシア人医師のアドヴァイスにより、「カイロ(手による)・プラクティーコ(技)」を発見することになるのだ。隣人のリラードの治療を試みたパーマーは、耳が聞こえず口の訊けないリラードの首の付け根あたりに違和感を覚え、そこに手を添え圧迫を加えたところ、リラードは耳と口の自由を得たのだった。この話はカイロプラクティックの進展とともに、さらにD・D・パーマーの息子B・J・パーマー(バートレッド・ヨシュア(ジョシュア)・パーマー)が後を継ぎカイロプラクティックを大學制度にまでアメリカのみならず、世界中に波及される中で、知らぬもののない話となって現在に至っている。息子のB・J・パーマーは研究の過程において、エジソンの協力を得レントゲンでの首の解析を行い、父D・D・パーマーのスリーリング(頭蓋骨・頸椎第一番・頸椎第二番の三つの穴)仮説の検証を証明するのだった。
カイロプラクティックに少し違った視点をわたしは導入したいと思うのであるが、それは、パーマーのセカンドネームのことなのであり、それは、彼らのユダヤ性を想うからなのである。創始者のフルネームは、ダニエル・デイヴィッド・パーマー、デイヴィッドは、ダビデ、旧約聖書の「サムエル記」や「列王記」に登場するユダヤの王である。息子は、バートレッド・ジョシュア(ヨシュア)・パーマー。ヨシュアはモーセの後継者として知られる。
『ヨハネ伝福音書』に「太始(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神とともにあり、言は神なりき」とある。この謎めく響きを、多くの人が知恵を絞り解釈してきた。しかしながら、ユダヤ民族の数奇な歴史、紆余曲折した長い歴史の中で『旧約聖書』時代以降の主流をなしたものは、厳格な精神を旨とするラビ的ユダヤ教(ラビとは、紀元一世紀にパレスチナに発生した新たなユダヤ教の宗教指導者の意)の教条主義的な思想であったのだ。「カッバーラー」は、これに対する反抗運動として形成される。西暦十二世紀後半、フランスのラングドック地方のユダヤ人の間に起こり、十三世紀には南フランスとスペインを中心として、一大精神運動として発展し今日へと至っている。
『旧約聖書』時代以降ユダヤ教の主導権を掌握したラビたちは、聖典『旧約聖書』(「トーラー」(律法)から一切の神話的形象及び生々しい象徴的イマージュを剥奪しようと努力を傾けた。ラビたちは、神から絶対的、超越的に純粋な形象化を避けることにより、人間的な香りを取り除こうとしたのだった。だがそこには、「生ける神」の生命力は枯渇してしまう。それでは宗教そのものの死にもつながりかねない。カバリスト(カッバーラーを信奉する人たち)は宇宙的生命の根源である神が創造する存在世界において、ラビたち合理主義者の知らぬ深い秘密の扉があり、神的存在の深みはヴェールの向こう側に垣間見えるのだとするのであった。
D・D・パーマーが語ったのは、全くカバリスト的な発言でもあったのだ。
「ユニヴァーサル・インテリジェンスに任せればよいのだ」と語る彼の観照意識の深みに立ち現われてくる軸椎という存在の根源的イマージュ(頭骸骨の穴、そしてその下の頸椎第一番の穴、パーマーにはギリシア神話のアトラス神のしなやかな筋肉の腕、肩が、地球という天体を支えている姿が見えている。ここで地球は我々人間という小宇宙の中心その中枢である頭部に置き換えられようか、さらにその下には頸椎第二番の穴が存在するけれど、パーマーの脳裏にもさすがに、「のど仏」という連想はあり得なかったであろう。頸椎第二番、軸椎、アクスイーズ(医学用語)ではあるけれど、文化の違いで、われわれ日本人にのみそなわる根源的イマージュがその存在を古来、「のど仏」「仏の坐」と称するのである。
カッバーラー研究者であり、イスラエル建国に関わった、自らもカバリストであるユダヤの碩学、ゲルショム・ショーレムも、文化の違いでイマージュは異なる、と語っている。日本人に固有の文化パラダイムとして成立する有機的システムとは、日本に生まれ育つ人間共同体の生成員が共有する、行動・感情・認識・思考の基本的諸パターンであり、それは共同体の成員の生活様式、実存形態を根本的に規定する。己の文化共同体の規準に従い生活しているけれども、わたしたちは通常、それを意識してはいない。
わたしが取り組みたかったことは「頸部前彎」の調律をD・D・パーマーから学び、「軸椎」の概念とその枠組みを、その一見動かしがたく固着してしまって、まるで融通のきかないようにみえる「軸椎」の枠組みを、その奥底に伏在し、秘められている膨大な量の創造的かつ想像的エネルギー、その世にも巨大なエネルギーは普段は慣性化された日常生活のぶあつい層の最下部に押し込められていて、ほとんど動きはないのだけれども、時と場が整合するときに突如として爆発しうる。その時とはあたかも過去の地球、恐竜が生息していた時代に隕石が衝突して大爆発が起こり、数億年の時代が一変した時のように、猛烈な力で噴出する内的エネルギーが起こりうる。
正しい方向、正しいチャンネルに導かれるならば、「軸椎」のユダヤ教神秘主義カッバーラーの「スリーリング」と日本的「のど仏」「仏の坐」との異文化的衝突は、互いの「枠組み」の光で検討することを可能にする。さらに、より高い次元へと展望を拓くことを可能にし超出するところの、より高いレベルへの弁証法的次元展開・転換に現実体験が克服されるホリゾンタルな融合といえるでありましょう。