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青山堂運歩 by 川島陽一

仰臥漫録-わたしの「WHO I AM」-

令和五年四月五日12時すぎに整体院を出、いつものように帰路二時間十分の道。
茅ヶ崎の海岸まで出て遊歩道をお日様に向かって歩くのだが、外に出て気づくのは、右足の靴の底のすれる感じだった。気にはなったけれど、こういう時には多くの人と一緒で、自分の感覚を肯定せずに、「いやいや、そんなことはない。くつはきふるしだから、」とか、思い込みを続けるもの。なによりも、頭が痛かったとか、気分がすぐれないとか、しびれ感とかの自覚症状がないのだ。

そのまま歩き続けるが、すりあしの音やまず。
明らかなる異変を感じるものの、茅ヶ崎の海まで三十分のところ四十分かけてたどり着く。海に出たころには右手が腫れぼったくなっている。否定していたけれど、ここまで来ると否定ができない、これは明らかに脳血管に異常をきたしている、と。
経験の上では、両親父二人、実の姉、障碍者の方々の施設経験で、十数名、さらには整体の仕事上あまたのクライアント様を見てきているから、知ってはいるのではあるが。いまじぶんのおかれているところを、他人のように、客観的に見ていたのだった。恰もひとごとのように。

しかし、あらためて、自分は脳梗塞或いは脳出血患者なのだ、と判断した。

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そのままさらに、海沿いの道を足を引きずりながら歩く。家内はその日は家にいる、家内に悟られないようにしなければならない、と無理矢理自分にいいきかせる。そうだ、道場の稽古で右足、右手を痛めたことにしよう。このまま倒れることはないであろう。まさしく、自己診断ここに極まれり、である。

家に着く。
そのまま知られることのないようにじっとしているのだが、夕食になり、どうも、ビールがまったく美味しくない。なんか変!と家内。わたしの体調の悪いときの傾向なのだから、ここでばれたかもしれないが。幸いにも、その前の日に、家内はクライアントさんの孫たちと(春休みでお孫さんたちが来ていて大変なので、家内に保育のお鉢が回ってきたのだ)遊び疲れもあり、まだ、さとられず。そうそうに布団をしき、床に就いた。夜中になり、からだがうずき始める、さあどうしよう、という考えは浮かばない。このままたえて朝を待つ。

朝はいつも家を出るのは早朝〜
なのだが、このところ家内も早起きになっていて、どうもいい状況ではないのだ。家内に知られないように家内よりも早く起きなければならないのだ。というわけで、五時に起き、もう不自由に成り果てたからだー右半身まひのーで、なんとか布団を押し入れにしまい、家を出た。足を昨日よりさらに引きずりながら。
歩けば何とかなる、はさすが、通用せず、だ。一キロ余りで断念、一国に出て、タクシーを呼ぼうとするのだが、わたしはもうすでにこのとき、どこにだしてもおかしくない、未だ病院に行っていないのであるから診断名を名乗ることはできないけれど、十二分に脳血管障害者であり、やはり、十二分に不自由なその右手をうごかせない、とほほ、である。

十分ほどかかったが、タクシー会社に電話をして、そのご十分でタクシーは来た。
早朝呼び出し料金は七百円也。整体院までの料金は二千六百円だから、計三千三百円。妙に細かいことに気づき始めているのは、今まで培った経験上の、両父親そのほかの方々の、つまり、脳血管障害の方々の、一大特徴と、合致するのだった。

さて、きょうの整体院のクライアントさんはお二人。
特に親しいというか、何れの方も十数年来のかたがたであったのは、さいわいであった。あらかじめ毛布を敷いておく。左手しか使えないので、整体につかう道具―二三キロあるーをベッド近くに置いておく。さあ、クライアントさんいらっしゃって、じつは子どものサッカーのコーチで怪我をした(実際コーチをしています)、手習いの剣道で手を怪我した、と。上手に言えた。

さて、この二か月、である。変化を書きしるす。
4月5日(木)に発症。右半身の麻痺、右手は縮こまり、右足を引きずる、口元は一見わからないものの、右の口元がマヒしているのだろう、よだれが出そうな感覚が常時。
4月8日右手指開く!ほんの少しではあるが、うれしいものである。
4月10日さらに指先が伸びる。この間夜間は体が常時落ち着かない、なかなか寝返りが打てないのだ。そして夜間頻尿、ほぼ一時間おきだ。病院にいるのではないから、すべて自力で起きる。なかなか厄介でしょう!!

さて、この頻尿からの脱出は4月23日(日)、同時に睡眠が少し深くなり、常時起きていなくてよくなり始めた。
前後するが、整体院での毛布架けが、なんとかできるようになったのが4月13日。
普通にできるようになったのが、4月19日だが、その前にすでに、長年のクライアントさんに悟られなかったのは、4月15日(発症からは10日である)。

体の方はどうか。右麻痺はやはり右肩が下がりますね。微妙であり、家内やいとこたち近くのひとびとから気づかれないけれども、自身は、右の目の黒い部分が気になる、それはわたしの目には、以前よりもやや大きく見えるのだ。
実際にこの目の正常化は時間がかかって、6月8日にやっと正常になった。やれやれ、である。

何しろ、家内には感謝してもしきれぬ。そして、近所に住まう従妹夫婦にも感謝いたします。
従妹の旦那さんは、週一でわたしを整体院に送ってくれている。いずれにせよ、本当は、皆呆れているであろうに。

いや、じっさい、こんな男がいるのだから、あきれる、であろう、普通ならば、というか、わたしは、明らかに普通ではないようだし、普通ではない証拠はいくらでも探せばあり、まず、大学中退者である。
その後は、なんと保育学校入学。当時、男性の保育者の資格はなかった時代であるし、男性の保育者などいなかったし、当時受け入れてくれたのは、東京中でたったの一校だ。其の先見の明と名誉のため学校名を記す、「東京教育専門学校」(目白)。そして知的障碍者の施設へ就職、転職は、無資格の、整体業。

でもって、普通、病院に行くだろう明らかに。「脳血管障害」なのだから、だれが見たって。ところが、こいつときたら、「整体院で治すから、昼間付き添ってくれ、クライアントさんの毛布がかけられないから。夜は弁当作ってきてくれ」って、どのびょうにんが、こんなむちゃをいうか、ああん(笑)。

メモを再び、毎朝のミャクハクを記す。4月6日82、結滞(脈の滞り)2以下省略。
4月7日62,1、8日69,1、9日66,1、11日65,1、12日62,1、13日58,1、14日58,0、15日59,1、17日59,1、19日62,1、20日60,1、21日59,1、22日58,0、24日56,0。ここまででほとんど落ち着いてきたのがわかる。さらに、5月10日には、54,0となり、かつての正常脈拍にもどったのである。

脳内に傷を負って見える世界がある、という日々を体験している。
朝にはこれまでも、クラシックを聴いて整体の準備をしていた。夕方には、ロックやジャズかけていた。ベートーベンの運命や第九などはフルオーケストレーションで、神経にはうるさいと思ったのだが、全然そのようなことはなかった。夕方のロックはうるさく響いた。キースジャレットは心地よく、他のジャズは耳障りであった。

此れも幸いなことに、整体をお教えしたかたに作業療法士さんがいらしてありがたかった。柔らかいものをつかむ握るは彼女からのアドヴァイス、感覚を大切に、ということである。家内からあてがわれた、お手玉、中トトロの人形のしっぽつかみ、アザラシのゴマちゃん人形は少しつかみにくくて、上級者向け(筋力がついてからということです)、お菓子の保冷剤もなかなか良かった。2週過ぎからは、剣道の「小刀」がとても役立った。そして、食事のときを含め、静坐を知るということを得たのは何よりのことであった。体をまっすぐにすることはすなわち、心も落ち着きますね。

教訓は、柔らかいものから始める、であり、じつにこれがちょう難しいのであった。リハは基本音楽をかけながら、であり、じつによい。サンタナがリハによい、実に!!それから、サザンのコンサートもよいと思う。両手の共同作業(両手をあげて!(キョード―横浜主催也(笑))。この後、リハの仕上げはピアノを弾くことにしよう。

今週(6月10日、12日)は、家内と小田原城址公園に6キロ歩き紫陽花と菖蒲を見に。さらに鎌倉へ紫陽花を、歩きは7キロ、ほぼリハビリは良好である。実は今回のわたしのマヒに至った原因、明らかに水分の過小摂取なのだ。毎朝約二時間をかけて、茅ヶ崎の端から端にかけての歩行時に私は、ほぼ水を飲まぬ。クライアントさんにはこう言っているーちゃんと水を取ってくださいねー。白袴ここに極まれり、である。

マヒから見る世界、ほんの一瞬の出来事だったようにも思える。
...しかしやはりそれは、感謝の心がいただける、長い道のりであったのだ。

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