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青山堂運歩 by 川島陽一

「工夫」の心理学

C・G・ユングは "心理学の基本概念" で、こう述べています。
『プエブロ族は私に教えてくれた。アメリカ人は皆、正気ではないと。もちろん私はちょっと驚いて、なぜそうなのかと尋ねてみた。彼らはこう述べる。「まあ、あの人たちは自分の頭で考えていると言うからね。まともな人間は誰も頭で考えたりしない。私たちは心臓で考える。」彼らはまさに、精神的な活動の座は横隔膜のある場所だと理解されていたホメロスの時代〔紀元前八世紀頃〕あたりにいるのだ。』

「心臓」(heart)は「心」(psyche)から招かれる言葉です。「心」は包括的であり、一般に肉体の「心臓」を意味し、人間の現実の「意志や感情的な面での心」(heart)、「知的な心」(mind)、「生命の原理という意味での心」(soul)、「形而上学的な心」(spirit)などを表します。おそらく彼らプエブロ族はさらに、「心的」(mental)と言われる心理学的な意味、「霊的」(spiritual)といわれる、神学的な色合いのことまでも包括して捉えていたのでしょう。
剣の道で言えば、剣士の場合「心」は本人の「意志」を示します。それは、人間のうちにおいて特に奥深い意義を持つものでありましょう。

さらに思考を深めますならば、禅においては、「本心」「赤子の心」「真人(しんにん)」「本来の面目(めんもく)」など、「心」を表す言葉に満ちあふれています。あえていえば、近代の心理学、あるいは医学では決して接近できない、何か、を人間は持ち続けますし、そこに人間の霊性はある、のだとおもいます。 

人間をただの動物や機械から区別する自己の霊性を最終的に目覚めさせるもの、それは「工夫」という概念である、とは鈴木大拙翁が "禅と日本文化"で述べている概念であります。また、『心を物に入れる、心で物を撃つ、それは現実の体験に関する「工夫」なのである』と批評家の小林英雄も "私の人生観"の中で言っております。

わたしの父は、戦前『講道館』で柔道を学びましたが、父がよく、「腹で考える」とか、「腹に聞け」といったことを思い出します。鈴木大拙翁や小林秀雄の「工夫」とは、このようなことであるとおもわれます。「心」とは何かがわかるだけでは足りないのだとおもいますし、日々の暮らしで、実際に行う必要があるのだともおもわれます。頭で考えるだけでは立ち行かぬことがあるのだと思うのです。この謎めいた「非存在的」な実体である「工夫」。自我が最終的に崩れ落ちるとき答えは自らその姿を現す、といわれますが、そこに現われるのは、「新生児」、なのでありましょう。

ここで、少し余談をはさみます。中学卒業時のことです、サッカー部の親友と、彼は高専に行くし、わたしは普通科の当時東京の学校群の最下ランクでしたが、その高校に行きます。お別れの儀式のようなもので、二人は映画を見にゆきます。今は知っている人は少ない「シネラマ」という迫力の画面の映画館が日本で三件ありました。そのうちの一軒は新宿の「ミラノ座」、もう一軒は日比谷にある「丸の内パンテオン」でした。2人はかなり背伸びをして、日比谷に行こうと決意し(笑)、そこで、スタンリーキューブリック監督の『2001年宇宙の旅』を見に行ったのです。アーサー・C・クラーク原作のその映画に二人は宇宙の神秘を感じながら映画館を後にしましたが、主演の宇宙飛行士フランク・ボーマンのラストの姿は、宇宙を見守るがごとくの、実に「新生児」の姿だったのです。

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わたしはそれ以来、あるいはその前なのか、記憶が定かではないことなのですけれど、自分が熱にうなされたりするときに、無限大の宇宙を自分が見ているという記憶というか、ある不思議なビジョンにとらわれるのです。そしてその自分には、果たして存在感はないのですが、反芻するとすればそれはある、もの、らしき「存在」なのです。以上とりとめないことをさしはさみました。その新生児がわたしの記憶を呼び覚ましてくれたのかもしれません。

「工夫」にもどりますと、「工夫」とは精神的な誕生に伴う痛み、のようなものなのでしょうか。その痛みを取り除いて楽にするために、人工的な医薬品を与えてくれる医師や心理学者もいるであろうとおもわれます。
しかし、人間は部分的には機械的あるいはまったくの科学的な存在であったとしても、それだけで説明しつくせるものでは断じてない、という「存在」なのではないでしょうか。
ですから、心=精神的(psychic)とは、超感覚的な現象のことだけではなく、物質性や生理学的性質を待たない対象をすべて含む言葉なのでありましょう。

空海は「須(スベカ)ラク心ヲ凝ラシテ其(ソノ)物ヲ目撃スベシ、便(スナハ)チ心ヲ以テ之(コレ)ヲ撃チ、深ク其境ヲ穿(ホ)レ」といいました。「目」が物を「撃」つ。これは空海のまさしく「工夫」でありましょう。

「古池や蛙(かわず)飛(とび)こむ水の音」
近代的な俳句の流派の祖、松尾芭蕉(一六四四 - 一六九四)は、この句で事物の真の姿(真如)を見出す。それが彼の「工夫」であるとおもわれます。古池から発する音に、かれは全宇宙を満たす「音」を聞く。芭蕉自身が自己の意識から消えさる。芭蕉にとり、蛙という取るに足らない無視して構わぬ生き物たちが、彼とともに宇宙的な事業の全体系と密接な関係を結ぶのです。

どんな芸術にもそれ特有の神秘や精神的なリズムがあり、日本ではそれを「妙」と呼びます。「妙」は、時として「幽玄」あるいは「玄妙」と称されます。「幽玄」は複合語であり「幽」と「玄」、いずれの語も「薄暗くて見通せない」という意味を持ちます。二語を組み合わせると、「完全な暗闇」ではなく、「曖昧」「不可知」「神秘」「知的な測りがたい」といった意味になります。こうして、芭蕉は「工夫」を「妙」へと導くのです。

「目に見えない世界がそこにあるのは間違いない。問題は、それがミッドタウンからどれくらい離れたところにあって、何時になったらオープンするかということだ。」とはウッディ―・アレンですが、つまるところ、目に見えない世界の、まさしくそこに、未知の情報はあるのでしょう。
藤子不二雄のドラえもんの「どこでもドア」は、いつだって、そこにあるのだとおもいます。原子や電子は目に見えないものである。

顕微鏡でさえ見ることはできぬ。医者はそれをウィルスのせいだという。われわれの目には、それは、なんとも、見えないのであるけれど。見えないのであるが医者の言うことは本当だと思う。そして目に見えないウィルスを徹底的に研究しなければ、地球上から病気を駆逐することはできないことを、われわれは了承する。こと医学に関する限り十二分に納得する。あたかも、水が凍ったときに、わたしたちはそれを手でつかむことができるように。

太古の時間から失われてきた記憶がそこに貯蔵され、それらは普通、心が、ある種の緊張状態に入ったときに、突然覚醒する。遠く遥か昔に埋没した記憶が、突如表に出てくる。それは「集合的無意識」であり、仏教特に唯識派で言うところの「阿頼耶識」alaya vijnana である。証明されたものではないけれど、こと意識、心、精神にかかわる事実について知ろうとする場合、このことを、少なくとも、仮定する必要があるようにおもいます。仕切のない世界、厚みのない世界を想像してみましょう。 荘子のいわゆる「畔(しん)」=畑の畦道(あぜみち)、の枠組みをはずすこと、がそれです。

アインシュタインは"わが相対性理論"において、「世界を眺めるにあたって、箱というイメージをなくしてしまう」、と言っています。芸術的,宗教的な、生きるわたしたちの「生」の秘奥を解明しようとするのであれば、そこに至ろうと望むのならば、「集合的無意識」(コレクティヴ・アンコンシャス)=「宇宙的無意識」(ユニヴァーサルインテリジェンス)は、創造的なその世界を垣間見せることでありましょう。

世界を眺め、観察するとは、「見抜く」ことでもありました。健康体を見抜く工夫こそがわたしの仕事ならぬ整体なのである、と夢想しつつ。

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