MAGAZINEマガジン

連載

青山堂運歩 by 川島陽一

資生を観る

赤ちゃんの笑顔やその体を見ると、幸せな気持ちになるのはなぜでしょうか。
その笑い声の響きを聴く、まん丸くってポチャッとしたかおを見て、幸せにならないひとはいないでしょう。三つ子の魂百までともいいますし、子どもの頃に帰ることは、わたしたちにとり、必須のことなのだとおもいます。
だからわたしの整体は、みなさまに供されて、きれいな彎曲の頸椎を生後獲得した状態つまり、元通り、になってもらうものなのです。再獲得の彎曲の整体、いってみれば、復活!の整体なのです。

『新訳聖書』マタイ伝・九―「新しい葡萄酒(ぶどうしゅ)を古き革嚢(かわぶくろ)に入るることは為(せ)じ」、とあります。新しい酒はキリストの教えを表し、新しい革嚢は洗礼により一新された心、と解釈されているのですが、「神を超える」これからの新時代に向けて、真に新たな彎曲をもたらしたいと思っています。

きれいな彎曲がもたらすものは、実に計り知れません。
少し前まで、筆者は頸椎前彎がもたらすものは脊柱の活性化であり、その内部の末梢神経の活性化、であると漠然と考えていたのですが、健全な精神は健全なる肉体に宿るとするならば、岡潔によれば、それは、後頭葉の活性化であり、積哲夫氏(精神学協会会長であり、『日本人は救世主』の著者)によれば、「大脳新皮質が作用しているのである」、ということに思い至ります。

これまでの整体や針灸、あんまマッサージ、カイロプラクティックその他ありとあらゆる治療法の概念では想像もつかない、ほとんど何もほどこさない整体法とは、果たしてなにものなのでありましょう。

『頸部前彎療法』は、実を言えば、いまだわたしにも不可解な部分があるのです。

わたしの整体は、背の高さを測り、その後姿勢を見ます。正面からと横からの二点、特に横からがポイントで、足のくるぶしを起点として耳の穴の位置がどのくらい前に行っているかを計測します。そして、肩の付け根の位置と耳の穴の位置が問題で、くるぶし、耳の穴、肩の付け根の三点がゼロであれば、その時にはその方の頸椎はきれいな前彎なのですが、初めからそのような方はまれであり、だから整体を施すのですわけですが、その実整体は、所定の枕に頭をゆだねて、わたしは、その方の頸椎の彎曲を作り、あとは枕にゆだねて数分待ちます。そして、数分後整った状態で約一時間ほど休息をとっていただく、ただそれだけですが、起きて当初の首の位置を見るときちんと彎曲がきれいになっているのです。

ほとんどのクライアントさんは、人に紹介するときに、「ただ横を向いて寝ているだけ」、という案内をしています。刺激を感じませんが、事後は股関節は正常化し、椎間が広がるために背が二センチほど伸びるのです。

話はかわりますが、『無量寿経」というお経は、わたしの家の宗旨の「浄土真宗」ならびに「浄土宗」の根本所依ですが、その中に十六観というものが説かれております。それによれば、極楽浄土というものは、空想するものではない、まざまざと、ありありと観えて来るものだ、といいます。

「観る」ということにはその順序があり、順序を踏んで観る修練を積めば、当然観えてくるものだ、このようにお釈迦様はいいます。もともとこのお経は、絶望した女性のために、仏が優しく説いたものということのようですから、実際にお釈迦様が菩提樹の下で悟りを開いたのとは、はっきりと別のものであるようにわたしには思えます。お釈迦様は、「禅観」という哲学的な観法により「覚者(ブッダ)」となられたのですから。

お釈迦様の禅観、静かにすわって観ること、は中国宋の時代に禅宗となって徹底した自己観察のもと「直指人心見性成仏(じきしにんしんけんしょうじょうぶつ)」を説きます。自分の本来本当の姿に仏性を看取れ、と。観はさらに観法となって、鎌倉時代日本の文学の世界に入り、その時代の代表的歌人西行はこういいます「虚空ノ如クナル心ノ上ニオイテ、様々ノ風性(ふぜい)ヲ色ドルト云エドモ更ニ蹤跡(ショウセキ)ナシ」(自分が歌を詠むのは、尋常をはるかに超えている。月も花も郭公(ほととぎす)も雪も凡そ、詠んだとしても、実は花を花とも、雪を雪とも思ったことはない)、と。諸法無我であり、一切皆空である、ということなのでしょうか。   

禅、とは、考えるとか、思惟するとかいう意味でありましょう。であるとしますと、禅観とは、つまり、思惟するところを、眼で観る、ということになります。

翻って、『頸部前彎療法』では整体時の姿勢を、整体用の枕にあわせてつくります。そのかたちは、美しい形。釈迦涅槃図というものをご存じでしょうか。言ってみれば、あのお姿、と言ったらうまく伝わるでしょうか。

そのお釈迦様の美しい姿かたちと、クライアント様の真の姿とを重ねるとすると、「軸椎」=(仏の坐あるいは、のどぼとけ)の正しい姿を、施術者は、まざまざと観る=診るということである、と、いまわたしはここまで書いてきて確心にいたりました。

ここで、「資生」の語源を紐解きますと、空海『性霊集』に、師慧可和尚への碑文がありまして、「大唐青龍寺故三朝国師碑「不屑資生。或建大曼荼羅・・・。或修僧伽藍処」とあり、おおまかの意味は、慧可和尚はもっぱら仏道に専念し、世間の名刹は追求することがなく、貧民には財物を以てこれを助け、愚民には仏法を以て救済し、皆むなしく来ても満ちて帰らせた、恩寵の財物も私的に使用することなくすべての建物の設立や運営に充てた。
つまり、資生とは、生命を助けるものの意であります。

仏教の身体的実践である、「修行」とは、実は、単に肉体を痛めつける苦行ではないとわたしはおもいますし、キリスト教の「修道」が、いわゆる奇跡を起こす超能力を身につけるためのものとも思いません。それは真理の智慧、とでもいうべきものを得るのにふさわしい状態へと、みずからの身心を調えることを目的としたものであるのだと、あらためておもいます。

カイロプラクティックの創始者の脳裏にあった、カッバーラーのセフィーロート=生命の樹とは、人間が神と同等のものになるために知るべきものとされておりました。いまこそ、カッバーラーの生命の樹の活動・秘密の開示を、その真相・深層の開示を必要とする時ではないのではないか、と愚考いたします。

さらには、人間として生まれたブッダが2500年前に対峙したこの宇宙のカルマを超えることをも思案いたします。

いままでの宗教を超えたところに意識を向ける必要をわたしは感じております。そして、美しい資生を観ることこそが人を癒すということなのではないでしょうか。その時に神の、自ら「われは在りて在るもの」(Ehyeh asher ehyeh )といった真意を、まことに巨大な無限大的なその存在エネルギーを、わたしたちは、関知するのでありましょう。
生命の樹.jpeg

*TAO LABより
今回はあえて写真を文章に合わせはめ込んでおりません。
川島さんの文章はかえってその方がいいのかと、今回は思い、至りました。
語句や人名等々、ひっかかり興味生じたものは自らお調べしていただけましたら、その方が楽しいかと〜:)

タイトルの「資生」は「ししょう」と読むそうです。その場合の意味は「〘名〙 (生命をたすけるものの意) 生活の具。衣食住の具。」
そして「しせい」とももちろん読みます〜「その気を承けて生育する。」という意味が書かれておりました。
で、あらためて日本語の複合的な音や意味や文字にシビれちゃってる私としてはその「資生」が「姿勢」にも通じ、あらためて川島さんのおやりになっていることの意義を深く、知るのでした...

NEXT

PAGE TOP