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青山堂運歩 by 川島陽一

地球は回る

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道元は『山水経』において「青山常運歩(せいざんじょううんぽ)」についてこう語る。

『山はそなはるべき功徳の虧闕(きけつ)することなし。このゆえに常安住(じょうあんじゅう)なり、常運歩(じょううんぽ)なり。その運歩の功徳、まさに審細に参学(さんがく)すべし。山の運歩は人の運歩のごとくなるべきがゆへに、人間の行歩(ぎょうぶ)におなじくみえざればとて、山の運歩をうたがうことなかれ。
いま 仏祖の説道、すでに運歩を指示す。これその得本(とくほん)なり。「常運歩」の示衆を究辧(きゅうはん)すべし。運歩のゆへに常なり。(中略)自己の運歩をしらんがごとき、まさに青山の運歩をもしるべきなり。(中略)未朕兆(みちんちょう)の正当時(しょうとうじ)、および空王那畔(くうおうなはん)より、進歩退歩に運歩しばらくもやまざること、検点すべし。運歩もし休することあらば、仏祖不出現(ぶっそふしゅつげん)なり。運歩もし窮極あらば、仏法不到今日(ぶっぽうふとうこんにち)ならん。』


『山に本来備わっている働きはそもそも尽きることはありません。だからこそ、永遠に安らかにそこにとどまり、ところを得て永遠に「運歩」しているのです。「運歩」の働きを子細に学ぶことです。山が「運歩」することと人が「運歩」することとは、同じことですから、たとえそのことが、人の歩みと同じく見えなくとも、山が「運歩」していないと、けっして疑ってはいけません。
仏祖である芙蓉道楷(ふようどうかい)が「青山常運歩」と言いきったのです。これは実に、根本のところを言っているのです。「常運歩」という言葉を窮境のところまで学ばれることです。「運歩」しているから永遠=「常」なのです。(中略)自らの「運歩」を知ろうとすれば、山の「運歩」をも知らなければなりません。(中略)自らの兆(きざ)しすら少しもないまさにその時、久遠の過去から少しも、「運歩」には進んだり退いたりするとこのないことをこそ、考えるのです。「運歩」に絶えることがあるなら、仏祖は、決して現われることはなかった。「運歩」がもし限りあるものであれば、仏祖は今日まで伝わっていなかったであろう。』

「常」=永遠、とは固着した状態ではなく、過去・現在・未来永劫にわたる運動が継続していることをいうのでありましょう。
果たして道元は、「運歩」=歩く、ということを、「道」において実践し且つ行為することを象徴したのでした。さらに道元における「青山」は存在そのもの、つまりは自己と世界の間にある諸存在の相互連関なのです。

禅においては、一人が修行することにより全世界がさとる、ということが暫し強調されるように、一個の「青山」は常に歩いているのです。 禅では、「花開いて世界起こる」とも言います。わが田に水を引くことを許せば、「イネイト・インテリジェンス」はすべての生命活動とそこに起因する生命現象を司りかつ、平衡を保つのである、ということになるでしょうか。

「頸椎」の第二番「軸椎=アクスイーズ・アクセス」が常に固着した状態にあるとしたなら、そのひとの首はいつもストレートでなければならないし、顔を前に見て首は前向き=その形は後彎―ストレートよりもさらに形が崩れていますし、治癒力は発揮されにくい状態となるでしょう。しかし「青山常運歩」の見方からすると「常」とは、新らためてみてみると、固着した状態ではなかったのでした。

今日、近現代の医学はとても進んでおりますし、目覚ましいといってよいほどに、わたしたち人体の細部に至るまで、細胞のみならず、遺伝子の存在までも分析されているおります。健康管理には定期的に健診を受け、何か異変がありましたならば、薬を服用しあるいは、予防接種を受けることで大事にならないようにします。
しかし、時には薬を飲むのが怖いように思うときが、わたし自身あります。一体薬であるのかわからない、というような、そういう薬害の問題も、世間にはいろいろとあるようです。
わたし自身の実体験からですが、高校時代の同級生I君は"ヒ素ミルク"の被害児の一人でありましたし、わたしの父は実は、精神を病んでおりました。先の大戦=大東亜戦争時に、満州の戦地で発症した、精神分裂病(当時)患者だったので、精神病の薬の怖さは、普通の人以上に身に染みております。さらに、直接に外物を体内に注入する注射も、ある意味恐ろしいものといえます。

「軸椎」というわたしたちの中心にある「存在」。
わたしたちのなかにある「青山」は「常」に「運歩」しているのだという見方をしていただけると、『頸部前彎療法』のことが理解していただけることと思います。

健康への近道である自己治癒力の世界は、じつに流動的であり可変可能な世界。病は不可逆的である、だからこそ近現代医学が発展した。しかし、直せぬ病も同時に増えている、というのがこの世界の常識なのですが、「イネイト・インテリジェンス」の世界は、実に、可逆の世界なのです。
そして、「イネイト・インテリジェンス」は、道元の語るところの祖師=仏陀の心ともつながります。それは『頸部前彎療法』の中心軸となる軸椎(頸椎第二番、アクスイーズ)という「存在」の名が、日本人ならば大昔から誰でも知っている、「喉仏=仏の坐」と呼ばれていることからもお分かりいただけるでしょう。

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