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「真我への目覚め」岡潔 解説:横山 賢二

【7】 数学の使えない世界

*講演日 :1967年12月6日 於 大阪市 北陵中学校
 仏教は、心の中に自然があると言っている。無差別智とは、その心に働く知力だというのです。心には、ギリシャ流に分けて、知・情・意の三方面があるが、そのどの方面に働くのかと言いますと、知・情・意の3つともに働くのだというのです。無差別智の〝智〟というのは仏教の言葉、普通知・情・意という時の〝知〟というのはギリシャの言葉、それで、仏教の智は、普通に書く知という字の下に、更に日という字を書くのです。

 無差別智は心に働くのですが、その心はどういうものか。心の中に自然があると言っている、その心は共通の心なのか、それとも、一人一人別々の心なのかと聴くと、仏教の答えは、一面共通であって、一面、一人一人個々別々なのだと言っています。そうすると、無差別智が働くというのは心の世界の現象ですが、その世界における心の関係は、1つともいえるし、2つともいえる。こういうものですから、心の世界は数学の使えない世界です。

 しかし、物質の世界は数学の使える世界で、自然科学者の理想としているところは数学へもっていくことです。だから、物質的自然には、無差別智は働き得ない。これで、物質主義は間違いである。我々の住んでいるのは、仏教的自然でなければならない。そういうことになります。

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*解説7
2017.11.09up
 まあ岡にかかれば次から次へとおもしろい問題が出てくるものである。数学者岡潔によれば、物質の世界は数学の使える世界、心の世界は数学の使えない世界とは、初めて聞かれる方もあるのではないだろうか。別のいい方をすれば、物質の世界は固体力学の世界、心の世界は流体力学の世界といえばよいだろうか。

 仏教では「一即多、多即一」といったり「不一不ニ」といったりするのだが、これは具体的にいえば人の「手の平」を思い出せばよいのである。手の平の指を数えれば5本あるから5であるが、手の平全体を見れば1つの手の平である。だから「一即五、五即一」ということになる。これはアメーバーの形態変化のようでもあるし、流体力学の世界ともいえるのである。


*岡潔思想研究会
http://www.okakiyoshi-ken.jp/index.html

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