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「自他一如」〜医の現場から見えること〜 by 岡田恒良

第二十五回 『家康は"令和"を誓った』

 愛知県岡崎市はご存知徳川家康の生誕の地です。三代英傑の一人、徳川家康は最後に江戸幕府を開くことができ、その幕府は十五代二百七十年も続くことになります。しかし若き頃の家康は苦難の連続でした。

 一五六〇年は名高い桶狭間の戦い。愛知県の豊明市に今も合戦の跡地がありますが、勝利した織田信長と敗者の今川義元だけが皆さんの記憶にあると思います。ところがもう一人忘れてならない敗者がいるのです。そう徳川家康です。当時はまだ松平姓でした。家康は敗軍となり、手勢を連れて岡崎に逃げ延びます。

大樹寺.jpg
"大樹寺"

 松平氏の菩提寺であった大樹寺にかくまわれ、すっかり気落ちした家康はいさぎよく腹を切る覚悟でした。そこに登場したのが大樹寺の住職、登誉上人です。
まずは寺をあげて貴殿をお守りすることを固く約束したののち、家康はおそらくその登誉上人にコンコンと説得されたのでしょう。その時の言葉が「厭離穢土、欣求浄土」。下のHPに大樹寺の関係の方が、詳しく書いておられます。

http://www.okazakicci.or.jp/konwakai/18okazakigaku/18-6.pdf

 上人は家康に戦の目的を正し、何のための天下取りか!と喝を入れます。ただ天下を取るだけなら盗人と同じとまで言い放ちます。そして家康に対し、「お前は弱肉強食のこの乱れきった世を終わらせ(厭離穢土)、民のために平安な世を築くのじゃ(欣求浄土)。」こういったと言われます。自害の意思はこうして回避され、家康は生き延びます。

 その時織田方の兵が大樹寺を取り囲んだそうですが、僧たちが一団となって戦い、家康を守ったということです。その時に太くて重い貫木(かんぬき)を振り回して敵を追い払ったのが、祖洞和尚、かんぬき共々今も祀られています。

 この八文字は家康の旗印となり、四十年間戦いました。桶狭間で負け、武田信玄(三方ヶ原)に負け、豊臣秀吉(小牧・長久手)にも勝てなかった家康ですが、その志が高かったためとうとう最後には征夷大将軍になりました。

家康.JPG

 そして明治。徳川の治世を忘れ、また戦乱の世になってしまいました。英米という夷狄がやってきたことが原因ではありますが、すっかり軍事国家になってしまい、散々な時代でした。明治以来の百五十年間に四度の戦争をした日本でしたが、もう夷狄を怖がることはないのです。

 さあ、徳川の誓い(欣求浄土)を思い出して、平和でなごやかな時代を作りましょう。(令和元年)

...続く

*TAO LAB より
明治維新はボタンの掛け違いにより日本を唯物論弱肉強食という世界を体験させることとなりました〜結果、それも大いなる計らいともいえるとおもいます。21世紀、あらためて地球維新を迎えるにあたっての実体験試行錯誤。観念論=精神性を核としたネオ江戸時代に地球人類が目覚めますように。


*著者 プロフィール
なごやかクリニック院長
名古屋醫新の会代表 
岡田 恒良(おかだつねよし)
https://www.facebook.com/tsuneyoshi.okada1
1955年岐阜県生まれ
1980年岩手医科大学卒
約20年消化器系一般外科医として通常に病院勤務。市民病院で外科部長として勤務中、ある先輩外科医との運命的出会いがあり、過剰医療や過剰投薬の現状に気づき、自然医学に目覚める。
1999年千島喜久男博士の勉強会を名古屋で主催、マクロビオティックの久司道夫氏の講演会企画をきっかけに病院を辞職。
御茶ノ水クリニックの森下敬一博士の機関誌《国際自然医学》に「自然医学の病態生理学」を長期連載。中山武氏の主催するがんの患者会「いずみの会」の顧問をしながら安保徹教授の講演会を開催し、親交を深めた。
看護学校にて補完代替医療について講義中。
2006年コロンビアのドクトル井上アトム氏に出会い、運動療法・自然療法の重要性を認識。以来南米に3度訪れる。 「自他一如」の探求は2000年から続く。

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