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伊豆序説 川端康成

いまから88年前、伊豆をこよなく愛した文豪川端康成が昭和六年に書いたこの文章を転載させていただきます。この随筆は『伊豆の旅 川端康成著注1)中公文庫の巻頭におさめられているものです。

昭和初期から伊豆半島もずいぶんと変わりましたが、まるで変わっていない描写もあり、当時の伊豆に想いを馳せ、現在の伊豆を感じることもできます。今から時空を超え、読書での伊豆の旅、お楽しみください。

そして今の伊豆にもぜひお越しください。

■伊豆序説 川端康成
昭和六年二月、改造社「日本地理大系」第六巻・中部編より


 伊豆は詩の国であると、世の人はいう。
 伊豆は日本歴史の縮図であると、或る歴史家はいう。
 伊豆は南国の模型であると、そこで私はつけ加えていう。
 伊豆は海山のあらゆる風景の画廊であるとまたいうことも出来る。

 伊豆半島全体が一つのおおきい公園である。一つの大きい遊歩場である。つまり、伊豆半島のいたるところに自然の恵みがあり、美しさの変化がある。

 今のところ、伊豆には三つの入口がある。下田からと、三島・修善寺からと、熱海からと、そのいずれから入るにしても、伊豆の乳とも肌ともいうべき温泉に先ず迎えられるのであるが、しかしそれぞれにちがった三つの伊豆を感じるにちがいない。

 北の修善寺道と南の下田道とは、天城の峠で出会う。山の北を口伊豆といって田方郡、南を奥伊豆といって賀茂郡、北と南では植物の種類や開花期がちがうばかりではなく、南は空や海の色にも南国が匂う。東西約四十四粁、南北二十四粁、半島の三分の一を占める天城火山山脈、半島の三方をめぐる海の黒潮と共に、伊豆を色づける大きいものである。椿を海岸線の花とすれば、石楠花は天城の花である。谿の深さ、原生林の厳かさは、小さな半島とは思えない。鹿狩の山として名高いばかりでなく、この天城越えこそは伊豆の旅情である。

熱海行きの汽車をしゃれてロマンス・カァと呼ぶ。心中は熱海の名物である。それほどに熱海は伊豆の都会であり、また関東の温泉中での近代的な都会である。修善寺を歴史の温泉といえるなら、熱海は地理の温泉である。修善寺附近には静かな侘びがある。熱海附近には花やかな明るさがある。伊豆山から伊東にかけての海岸線は、南欧を思わせて、伊豆の明るい顔である。同じ南国風にしても、奥伊豆の海岸線はなんと素朴な牧歌であろう。

 伊豆には、熱海、伊東、修善寺、長岡の四大温泉をはじめ、二十または三十の温泉場があり、伊東だけでも数百の湯口を数えることが出来る。これらは玄岳火山、天城火山、猫越火山、達磨火山なぞの名残で、伊豆が男性的な火の国のしるしである。また、熱海の間歇泉、下加茂や峰の吹上温泉、半島の南端の石廊崎を打つ荒波、狩野川の出水、海岸線の出水、海岸線の岩壁。植物の逞しい茂り、それらは悉く男らしい力である。

 しかしながら、いたるところに湧き出る温泉は、女の乳の温かい豊かさを思わせる。そして女性的な温かい豊かさが、伊豆の命であろう。田畑が非常に少ないにかかわらず、共産的な村があったり、無税の町があったり、黒潮と日光に恵まれて小麦色の温かい女である。
 ただ、鉄道は熱海線と修善寺線と、それもほんの入り口にとどいただけで、丹那線が開通し、また伊豆循環鉄道が出来るまでは、交通が不便である。そのかわりに、四方八方へ乗合自動車が開けて、馬車の笛と旅芸人の歌のある、伊豆らしい旅路が見られる。

 主な街道は海と川に沿っている。熱海から伊東へ行くのと、下田から東海岸を行くと、西海岸を行くのと、そして狩野川のほとりを天城へ上がって、河津川と逆川とのほとりを南へ下りて行くのと、温泉はそれらの街道に散らばっている。そのほかにも箱根から熱海への山道、猫越越の松崎道、修善寺から伊東への山道なぞ、多くの街道が伊豆を遊歩場ともし、画廊ともしているのである。

 伊豆半島は西が駿河湾、東が相模湾、南北約五十九粁、東西の最も幅の広いところで約三十六粁、面積約四百六万坪、静岡県の五分の一を占めている。面積の小さいとは逆に海岸線が駿河遠江二国の和よりも長いのと、火山が重なって出来た地質の複雑さとは、伊豆の風景が変化に富む所以であろう。

 今でこそ、伊豆の長津呂地方は日本で最も気候がいいとの説もあり、半島全体が一つの遊園地のようだが、奈良朝の頃は恐ろしい遠流の地であった。それが生き生きと動き出したのは、源頼朝の旗揚げの頃からである。一度は幕末の黒船の渡来である。しかし、そのほかにも、範頼、頼家の修善寺哀史、堀越御所の盛衰、北条早雲に韮山城なぞ、数えるに遑もない史蹟である。日本造船史の上に伊豆が古くから大きい役目をつとめたことも、海と木の国伊豆を語るものとして忘れてはならぬ。


*台湾でも出版されている『伊豆の旅』
伊豆之旅.jpeg
【伊豆之旅:異鄉美學的終極書寫,川端康成淬鍊人生孤寂短篇選】

注1)『伊豆の旅』
一高生時代の"美しい旅の踊子との出会い"以来、伊豆は著者にとって第二の故郷となった。青春の日々をすごした伊豆を舞台とする大正から昭和初期の短篇小説と随筆を集成。小説は代表作「伊豆の踊子」ほか「伊豆の帰り」など七篇、随筆は「伊豆序説」「湯ヶ島温泉」「温泉女景色」「伊豆の思い出」など十八篇を収録する。

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