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1941-12-8 マレー半島上陸

1941(昭和16)年12月8日午前3時19分(日本時間〜現地時間7日午前7時49分)、日本海軍がハワイ・オアフ島・真珠湾のアメリカ軍基地を攻撃し、3年6箇月に及ぶ大東亜戦争対米英戦(太平洋戦争)が勃発した〜といわれている...

が、同日、じつはそれよりも早く(時差の関係)日本陸軍が午前1時30分(日本時間〜現地時間タイ7日午後11時30分マレーシア8日午前12時30分)から次々とマレー半島タイとマレーシアの国境近くの海岸に上陸、マレー作戦が始まる...

開戦時における日本軍の戦略目標は、石油や天然ガス、ゴム[以上、略奪ではなく購入の為]などの豊富な天然資源を持つオランダ領東インド(現インドネシア)の資源地帯の占領であった...亜細亜の同胞達と戦うのが目的ではなく、そこに至るには手前に立ちはだかる、イギリスの植民地であるマレー半島およびシンガポールを攻略する必要があったためだ...この戦争は亜細亜への侵略ではなく、西洋列強の植民地化から唯一残っていた亜細亜の独立国(タイは若干意味が違う)としての戦いだった。

上陸した日本軍は、イギリス軍と戦闘を交えながら55日間で1,100キロを進撃し、1942年1月31日に半島南端のジョホール・バル市に突入した。これは世界の戦史上まれに見る快進撃であった。作戦は大本営の期待を上回る成功を収め、日本軍の南方作戦は順調なスタートを切った。この作戦の実施司令官は山下奉文中将。この作戦成功により山下中将は「マレーの虎」と評された。

マレー作作戦.jpg
(一億人の昭和史 日本の戦史7 太平洋戦争7 毎日新聞刊 p128)

2013(平成25)年1月上旬、年末年始を南インド アマチのアシュラムで過ごし、その後、マレーシアに。
上記、上陸海岸にこのカラダを持っていき、ここ20年ほど個人的に行っている慰霊平和祈願の旅(いつか詳しく記録しようと思っていますが、そのきっかけになった1994年の時空を超えた山下奉文氏、松井石根氏、東条英機氏、そして昭和天皇との霊的な交流)の一環で手を合わせ祈りを捧げるため。
まずはクアランプール入り、夜行バスでコタバルに。数日滞在。

"マレーシア コタバル"

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「海岸」

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「市場」

そこからあらためてバスにのり国境を超えタイ パタニーおよびタペー(こちらも上陸場所)そしてシンゴラに。

"タイ シンゴラ"

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「海岸」

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「寺院」

タイにも数日滞在、そしてふたたびバスに乗り、国境を超え、クワランプールに戻ったのでした。

"マレーシア クアランプール"

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「ペトロナスツインタワー」


すべての戦争犠牲者の方に合掌。
人々が平安で世界が平和でありますように。


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"おもいで〜コタバル 素食店(中華ベジタリアン)にて〜こんな田舎にあるなんて、毎日通いました...天の計らいに感謝!"

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