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「自他一如」〜医の現場から見えること〜 by 岡田恒良

第八回 運動は競技ではない

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 いつから運動が、競技・競争になってしまったのでしょう。真夏の炎天下、陸上競技の練習で体力を酷使、倒れそうになった高校生を診察しました。この高温炎天の悪条件の中、次の試合に備え毎日毎日練習に励むそうです。まだまだ身体が完成していない、比較的小柄な高校一年生。いきなり勝つために運動をするよう、教育されています。

 運動の動機を、勝つ喜びから導き出そう、勝利の美酒ではないですが、勝った快感を味合わせたいという指導者がいます。はっきり言ってこれは西洋の発想です。

 西欧の軍は、イギリス海軍を始めそもそも侵略者の集団です。いわば海賊が英国軍の原点です。武力衝突が繰り返され、軍事立国が出来上がりました。大陸のすべての国がそうであったと言えるでしょう。ユーラシア大陸というところはそういう過酷な立地条件であり、そこを生き抜いてきたのが現在の西欧なのです。安全だった島国日本とは大きく異なるのです。お気の毒なことです。

 それに対して日本の武は異国との争いでなく、そもそも護衛が原点です。禁裏を守る近衛兵が平氏源氏の元ですから、荘園からの年貢米運搬の護衛や、貴族の守衛がその仕事でした。当然武道には専守防衛の思想が流れています。すでに貧富の差や貴賎があることはやむえないとして。

 剣道、柔道、空手、合気道、ともに他流試合などは本来の目的ではありませんでした。心身の鍛錬のため、日々の研鑽を積んだのです。臍下丹田を強化し、忍耐力や精神力が養われます。しかし、昨今はこれら武道までもが競技になってしまう有様ではありますが。

 明治以降、洋式のスポーツが伝えられると勝敗結果が最優先になっていき、運動の本来の目的がどんどん損なわれていきます。運動とは適度に身体を動かすことで、健康に寄与するもののはず。競技の出現は、西洋の戦争歴史が生んだ、代理戦争のようなものなのです。勝者=1位が全てを凌駕するのは、戦争での勝者が敗者の全てを奪い去ることにつながります。ですから1位(グランプリ)でなければ意味がないのです。

 高校や大学においての運動部のあり方が今後大きく問い直されることでしょう。最近の不祥事を見ればわかることです。勝つことだけが目的になって、全国1位を目指し、生徒に過酷な練習を強いています。スポーツだけでなく、音楽などの芸術もその傾向がありそうです。そしてそれが学校の生徒募集に貢献するという発想です。強い運動部が学校での発言権を強くするわけです。そして生徒や学生が学校の宣伝に使われてしまっていても、保護者は何も言いません。どうやらそれを承知しているようです。子供の自慢話でもしたいのでしょう。学校も保護者も有名病に侵されています。
 
 これから始まる全国高校野球もある意味、競技虐待ではないかと前から考えていました。鍛えた身体とはいえ、投手などに過剰な運動負荷を強いておいて、全国放送でこれを美化すること、前時代的発想と考えます。日本放送協会がするべきものかどうか。

 相撲はそもそも江戸時代からの民間興行であり、見世物でしたから、武道ではありません。ですから道が付きません。国技と言って格式を持ち上げてしまったのは、最近のことです。ですから真剣に観賞するものでもなく、気楽に観戦しましょう。八百長があったくらいで非難してはいけません。本来の芸能として生で楽しみましょう。 ...続く

*著者 プロフィール
なごやかクリニック院長
名古屋醫新の会代表 
岡田 恒良(おかだつねよし)
https://www.facebook.com/tsuneyoshi.okada1
1955年岐阜県生まれ
1980年岩手医科大学卒
約20年消化器系一般外科医として通常に病院勤務。市民病院で外科部長として勤務中、ある先輩外科医との運命的出会いがあり、過剰医療や過剰投薬の現状に気づき、自然医学に目覚める。
1999年千島喜久男博士の勉強会を名古屋で主催、マクロビオティックの久司道夫氏の講演会企画をきっかけに病院を辞職。
御茶ノ水クリニックの森下敬一博士の機関誌《国際自然医学》に「自然医学の病態生理学」を長期連載。中山武氏の主催するがんの患者会「いずみの会」の顧問をしながら安保徹教授の講演会を開催し、親交を深めた。
看護学校にて補完代替医療について講義中。
2006年コロンビアのドクトル井上アトム氏に出会い、運動療法・自然療法の重要性を認識。以来南米に3度訪れる。 「自他一如」の探求は2000年から続く。

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